ほころび
#+C #連珠+歳星
ホクレアの聖地、蒼穹天槍は雪山の中にひっそりと佇む。道とも呼べぬ険しい山と冬の猛吹雪が侵入を試みる不届き者を阻む天然の防壁の役割を果たしている。聖地への道を知るのはホクレアだけ。部外者がそこを訪れることは彼らの手引きがなければ不可能だ。ほんの数人、それを果たした者もいたが。
宮の主である大巫女の一人、連珠は供人に手を引かせて散歩を楽しんでいた。以前は奥に篭りがちだった彼女だが、今はこの散歩も日課としている。
「歳星」
回廊でふと足を止め、鈴の声で呼び掛ける。
「はい、なんでしょうか」
応じたのは年近そうな少年。声はまだ高く、背丈は連珠の頭が少し肩を越える程度だ。
「あなたがここへ来て、どのくらいになりますか?」
「はい、ええと……ちょうど季節が一巡りです」
「季節が一巡り……」
連珠は少し驚いた声色で、ほう、と息を吐いた。
「もっと長い間、一緒にいたような気がしますのに」
フフッと軽やかな笑い声につられて歳星も微笑んだ。緩やかな春の風が結い上げた銀の髪をさらりと揺らす。薫き込めた香の甘やかな匂いが少年の鼻先をくすぐってゆく。
不意に連珠の顔から笑みが消えた。代わりに寂しげな表情が浮かび、ぽつりと問う。
「……ここへ留まったことを、後悔していませんか?」
「えっ……そんな、滅相もない!」
歳星は慌てて首を振った。連珠は歳星から離れて欄干に手を置き、外の景色へ視線を移した。彼女の眼では薄ぼんやりとしか捉えられないが、眼下に広がる険しい山々は未だ真白い雪化粧を纏っているはずだ。
少年がすぐ後ろに控える気配を感じ取り、連珠は誰にともなく話し始めた。
「……私は少しだけ悔いています。あなたを仲間から引き離して、ここへ縛り付けてしまったことを」
天真爛漫な少年を聖地の重苦しい型に押し込めてしまったことを。我が儘とも言える性急さで《歳星》を変えてしまったことを。
悔いているくせに、手放せないことを。
──夢を見たことも?
決して気まぐれではない。なるべくしてこうなったのだ。しかしそれを証明する手立てがない。初めて対面したときの不思議な感覚は言葉ではとても表しきれない。漠然と言うだけ言ってみるならば、あれが運命というものだろうか。
離れたくない。けれど自分は追いかけて行くことが出来ない。ならば、相手を繋ぎ止めるまで。それは叶った。そして対価を支払ったのは彼女ではなかったのだ。
下働きならともかく大巫女の供人になった以上、歳星は集落暮らしで得たそれとは全く違った厳しい礼儀作法と多くの知識を新たに修得しなければならなかった。常に連珠の傍らに付かなければならず、山や谷へ出ることも出来なくなった。
歳星の生活は反転とも言えるほど変わっていた。しかし彼自身は、それをやや重く感じたことはあれど苦痛とまで思ったことはなかった。
蒼穹天槍で仕事を任される。しかも大巫女、連珠の付き人として。歳星には誇りこそすれ、悔いる理由はどこにもなかった。もちろんそれまでの生活や仲間たちに全く未練がなかった訳ではない。だが、確かに連珠直々の頼みではあったが、最後に決断したのは歳星だった。自らの選択に責任を持てないほど子供ではない。
「連珠さま、私は……!」
言いたいことはあるのに、どう言えば良いのか。言葉がうまく続かない。少女がゆるりと振り向く。不思議なくらい自然に歳星は片膝をついた。
──私の傍に在ってくれませんか?
差し出された手を取ったあのときと、同じ。
「歳星……?」
連珠が不安げにそろりと左手を伸ばした。それを両手で優しく包み、額に当てた。
「俺は、幸せです」
偽りでないことが伝わるように。
長い睫毛が揺れる。歳星の手は熱いくらいだった。連珠が膝を折ると、顔を上げた歳星と目の高さが揃う。連珠は瞼を閉じているのに視線が交わった気がした。
「私も幸せです」
小さく、蕾が開いたように少女は微笑んだ。
「この先もずっと、傍にいてくれますか?」
「はっ、はい、もちろんです!」
勢いで立ち上がろうとした歳星を押さえ、連珠が唇で額に触れる。そうっと祈り、願いを込めて。
「え……」
つぶらな目が瞬いた。
「……見ーちゃった」
離れた柱の影から二人の様子を伺っていた昴はくるりと踵を返した。槍を肩に乗せ、鼻歌を歌いながら持ち場へ歩き出す。
「昴様、こちらにいらしたのですね」
「あ、天鼓」
蒼穹天槍の中では特に目を引く、石の都の赤い衣。従者は昴のすぐ側まで近寄り、首を傾げた。
「……何か良いことでもありましたか?」
「んー? まあねー」
なんでもないように装った顔が、こらえ切れずにふひひ、とほころぶ。
「連珠姉があんなに嬉しそうにしてるの、久しぶりに見たなあって」
「はあ、連珠様が……?」
「わからなくてもいーの。さ、行こ行こ!」
また不思議そうに首を傾げる天鼓の背を押し、昴は軽やかに去っていった。
吹き抜けた春の風は、はにかんだ笑い声と甘やかな香りを乗せて。
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『もしも歳星が連珠の付き人になったら』
というどこから来たのか分からない妄想の産物。
2011/05/26