邂逅
#ブッダ赤い砂漠 #チャプラ #シッダールタ
チャプラは寝返りを打ち、諦めたように溜息をついて体を起こした。
何故だろうか、どうにも寝付けない。月は雲に隠されていて眩しくはないのに。
静かに寝床を出、廊下をすり抜け、厩舎から自分の馬を連れ出した。静かに、静かに。背には乗らずに手綱を引いて。
「すまないな、お前も眠いだろうに」
声を潜めて囁く。愛馬は鼻を鳴らし、ぶるりと首を振った。苦笑して、ゆるりとチャプラは歩いてゆく。もうすぐそこに屋敷の門が見えている。
「これはっ、チャプラ様! 一体どちらへ?」
眠そうに立っていた門番が跳び上がって姿勢を正した。静かに、とチャプラが合図をしてみせると、慌てて口を手で押さえる。それが可笑しくて、くすっとチャプラは笑った。
「散歩だ。すぐに戻る」
「し、しかし……」
最後まで聞かずに愛馬の背に跨がり、緩く走らせる。傍からはのんびりしているようにも見えたが、チャプラは急いていた。
何故かはわからない。ただ、誰にもこの先を知られてはいけないような気がした。
屋敷から十分離れたことを確認すると、今度は勢い良く馬を駆った。甲高くいななきが響いて、蹄が力強く地を蹴る。全速力で、行き先も定めず、がむしゃらに駆けた。夜のぬるい空気が風となって、ひんやりと剥き出しの肌にぶつかっては砕ける。
空に星はない。雲が覆ってしまっていた。
──さて、どこまで行こうか。
考えてはいる。ぼんやりと。
国境を越えなければいいだろう。鎧はないが剣はある。チャプラは強い。強くなったのだ。きっと国の誰よりも。
赤い土を蹴り、貧相な木立を通り過ぎ、所々に岩が覗く荒野を駆け抜け、ふと馬が足を止めた。見ると、目の前に河が流れていた。
馬の背から降り、水を飲ませてやる。相変わらず空は雲に覆われたままで、辺りは真暗闇だった。対岸で何か動いたような気がして、チャプラは目を凝らす。白っぽい馬の形と、人影がひとつ。馬はおそらく河に口をつけていて、人影はそこに寄り添うように立っていた。背丈はチャプラと同じか、やや低いくらいだろうか。
一陣の風が吹き、雲が流れた。生まれた切れ目から月が顔を出し、一筋の光を投げ込んだ。
途端、チャプラは息を呑んだ。
対岸の人影が揺らめいた。少年だろう、細い体だった。高く結い上げた、青みがかった黒髪が艶やかに月光を映す。白い肌は、まるでそれ自体が光を発しているかのように眩かった。目に見えて気高く、清らかで、豪奢な黄金の飾りよりずっと眩い。
けれど、チャプラの目はただ一点に吸い寄せられている。離れていても吸い込まれそうな、憂いと慈しみを湛えた碧い瞳が、驚いたように少し見開かれて。榛色の瞳を確かに捉えていた。
顔や体といった外見ではなく、もっと奥底を……《チャプラ》を見つめられているような、そんな気がした。コーサラ軍の若き勇将であることも、かの猛将ブダイの嫡子であることも、元はシュードラの身であることすらも剥ぎ取った《チャプラ》を、すっと見透かされたように思う。とても不思議で、だが何故か不快ではない。ただ何かが圧倒的すぎて、視線を外せぬままチャプラは立ち尽くしていた。
「誰だ……?」
気弱そうな声が響いた。チャプラが我に帰り、対岸の少年がその声を発したと気付くまでに一瞬の間が空いた。すぐに馬を引き寄せ、念のため剣の柄に手を掛けて尋ね返す。
「そっちこそ、誰なんだ。特にあんたに用がある訳じゃないんだが」
「そ、そうか、すまない……私は、シッダールタという」
――シッダールタ……?
どこかで聞いたような気がする。それとも気のせいだろうか。養父の知り合いの中にもそんな名はなかった。
チャプラは軽やかに馬の背に跨がると、河の中へ歩を進めた。
「そっちに行く」
「えっ」
目に見えてうろたえる少年の方へ、緩く流れる水を踏み分けて近付いてゆく。少年はおろおろと落ち着かなかったが、逃げはしなかった。ずっと白馬に寄り添って立っていた。
「シッダールタ、って言ったな」
向かいに降り立つと、少年はぎこちなく頷いた。背はチャプラより低い。鼻先と同じくらいの高さに碧の双眸があった。
――シャカ国のクシャトリヤだな。どっかの貴族のご子息サマだ。
努めて冷静にチャプラは少年を観察し、こう判断した。身につけた装飾品だけなら盗賊だって似たようなものを持っている。だが、こんな雰囲気を纏って、こうも指先まで上品に振る舞われたら疑う余地もない。
斬るか、否か。逡巡もせずチャプラは剣から手を離した。
「俺はチャプラ」
「チャプラ……?」
「ああ」
にっ、とチャプラは歯を見せて笑った。ほっと息をついてシッダールタも微笑む。開き始めた蓮花のように美しく、はかなげに。
ゆっくりと瞬きし、見惚れていた自分に気付くとチャプラはわざとらしく咳ばらいをした。
「シッダールタ、こんな時間にこんな所にいていいのか?」
「……良くはないよ。だけど、それは君だって同じだろう?」
「まあ、な」
チャプラは頬を掻いた。シッダールタは真っ直ぐにチャプラを見つめている。あの不思議な感覚は薄れていたが、いつまた捕われるかわからない。澄んだ瞳はただでさえ人を惹き付ける。
「でも、あんたは帰った方がいい。きっと家の人らが心配してる」
「どうして?」
「どうしてって、お坊ちゃんが夜中にいなくなったって知れたら大変なことになるんだよ」
奴隷だった頃、何度かそんなことがあったと思い出す。チャプラの主人は商人だったが、それでも子供が急にいなくなると大騒ぎになった。奴隷は子供と口を利くことも許されておらず、捜索に駆り出されることはなかったが、ほかの召使たちが必死になって駆け回る様を見たことがあった。ヴァイシャでこの様だったのだから、クシャトリヤならもっと大変な騒ぎになるだろう。
少年は驚いた顔で、ぱちぱちと丸い目を瞬いた。
「私はお坊ちゃんではないよ」
「嘘つけ。見りゃ分かるさ、それくらい」
お坊ちゃんではなくて王子だ、と言いかけてシッダールタは口を噤んだ。こんな風に、庶民同士のように話してくれる人は今までいなかった。友になりたいと、強く思う。
「……わかった。今日はもう帰ろう」
「それがいい。俺もそうする」
「チャプラっ」
馬の首を返して飛び乗った青年をシッダールタは呼び止めた。
「また、会えないだろうか……?」
「やめといた方がいい」
「でもっ……」
「いいのか? 俺はあっちから来たんだ」
チャプラが指差した方角は、シッダールタの住まい、カピラ城とは正反対だった。シッダールタは実際に見たことはないが、その先にはコーサラ国の都、サーバッティがあるはずだ。赤い砂の上に建つ、堅固な石の都が。
「関係ない」
真っ直ぐに、馬上のチャプラから碧い目を逸らさずに少年はきっぱりと言った。
「……そうか」
ふう、と息を吐きだし、チャプラは穏やかに微笑んだ。
「気が向いたらまた来るよ」
「……気が、向いたら……」
「次の満月、またここに来る。あんたも気が向いたら来ればいい」
あくまで気が向いたら。それを強調したのは約束にしないためだ。チャプラ自身は来るつもりだし、シッダールタもそうだろう。互いの立場と、夜半という時間故に邪魔をされなければきっと再会もできよう。
月に薄く雲がかかり、辺りがふと薄暗くなった。チャプラは河を渡り、シッダールタは白馬に跨がって手を振った。
「またな、チャプラ」
「ああ、気をつけて帰れよ」
手を振り返し、チャプラは馬を駆った。碧い目が追いかけて来るのを感じながら荒野を駆けた。往路と違うのは、今度の足どりは軽やかだった。
「シッダールタ、か」
ぽつ、と名を呟く。チャプラがコーサラ国の者だと明かしても、関係ないと言い放った。貴族の坊ちゃんだというのに、あんなに嘘のない目で。
「変な奴」
くすくす。幼い少年のような、無邪気で楽しそうな笑い声だった。
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邂逅
2011/06/03