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夕べの慰めの歌

​#+C #ライツ #ロヴィスコ

 暗闇の中にいた。ひとりだけ立っていた。
 何も見えない。自分の手も、足も。
 何も聞こえない。自分の呼吸さえ、微かにしか。
 月のない夜よりも昏い。きっと大地の深淵よりも冷たい。例えるならば、陽射しも途絶えるほどに深い深い海の底……。

 唐突に、視覚が何かを捉えた。
 不思議と驚きはせず、目の前のそれを見る。それはヒトのかたちだった。頭があり、首があり、胴があり、四つの手足があった。
 それは俺のかたちだった。薄汚れてくすんだ金の髪も、ところどころ破れた襤褸の囚人服も、首と手足に残る枷の痣も、あの日の俺の姿だった。

 ──A-778-25号。……否。ただのライツだ。

 鏡に映したような姿。俺が動かないから、同じように立ち尽くすのか。
 俺はこんなに赫い眼をしていただろうか。物憂げに濁り、翳っているくせに、奥底はぎらぎらと光っていて、とても『英雄』の目には見えない。
 『英雄』とは、もっと輝かしいものだと思っていた。御伽話のように、夢と希望を抱いて澄んだ瞳をきらめかせる、そういうものだと。

 目の前のかたちが僅かに動いた。唇が開いた。俺は開いていない。俺のかたちをしたものが、勝手に口を開けている。

夜が私を脅かすたび必ずいつも
あなたの星が現れた。

 歌だった。俺のかたちが、俺の声で歌いはじめた。
 哀しい旋律。無伴奏の独唱。おごそかに、ひそやかに、ゆったりと、無感情な声を響かせて歌う。
 気味が悪い。やめろと呟く。届かないのか、歌は繋がれてゆく。

わたしがどんな苦境に置かれていたときも
あなたは力強い御言葉を送ってくださった。

いくたび、わたしが自らを欺き、あなたに背いたかを、
あなたは心広く、わずかにも顧みられなかった。

 信仰者たちの歌に似ている。英雄王を讃え、救いを求める、果てしない絶望の歌に。
 ――俺は、自らを欺いてなどいない。
 怖気がする。やめろと呟く。音が立ってもおかしくないほど奥歯を噛み締めていた。

 何故、思い出すんだ。
 あの目を。あの背を。あの日、あのときの温度を。感触を。激情を。空虚を。
 お前は死んだ。そうだろう、何故なら――

わたしに欠けているものを、あなたは知っておられた。
光あれ、と告げるあなたのことばは揺らぐことがなかった。

 拳を握り締める。突き刺さるような痛みがあった。開いてみると、小さな星の飾りがひとつ、暗闇の中に輝いていた。

 ──「どうか我々の行く先に、一筋、光のあらんことを。」

 ステラ・マリス。船乗りたちの、航海の守り星。
 あの日、お前がくれたもの。

わたしの罪がわたしを訴えたとき、
あなたは断固として無罪の判決を下した。
罪ある者の友となる、と
宣言した判事はどこにおりましょう。
わたしがしてしまったことが何であれ、

 

「やめろ!!!」
 ふっと歌が途切れ、かたちが消えた。真暗闇に甲高い反響が残る。
 ひどく息を切らしていた。吐き気がする。嫌な汗が全身をじとりと湿していた。

 あの日、あのとき、お前は俺を諭そうとはしたが、責めはしなかった。一言の罵倒も叱責もなく、お前は死んだ。そうだろう。
 おれがころした。
「──……ッ」
 膝を付いていた。水が流れていた。眦から零れて頬を伝い、ぽたり、ぽたりと落ちてゆく。膝頭が熱かった。

 後悔など。懺悔の真似事などしたくない。俺は、俺が思う最善を選んだはずだ。
 お前の許しなどいらない。俺を許すな。憎め。呪え。
 未練は山ほどあったろうに。何故、あんなに穏やかな顔で逝った?
 一言も、俺を責めないで。

 俺はお前の存在が耐えられなかっただけだ。
 星ひとつほどの小さな光なのに、直視できないほどまばゆくて。背を向けてもお前は手を差し延べてくれた。俺を見捨てることなく、暗闇の淵から掬い上げようとしてくれた。

 微かな旋律。重和音。何か、楽器の音だ。おごそかで哀しげな旋律に乗せて、声が聞こえる。歌の続きだった。

 

わたしを囲むすべての夜々に
この身をあなたの腕に委ねることが許されている。
あなたの愛のほかは何も想わず、
わたしを見守り、すべての人を見守られる。

「ロヴィスコ……おまえに……」

 言いたいことがあったはずだ。ゆらりと立ち上がり、頭上を仰ぐ。空が見えなくても、きっとお前は上にいる。血と死臭に塗れた俺では恐らく行き着けない、きっと哀しいくらい綺麗なところに。

 ──ライツ。

 嗚呼。懐かしい、お前の声だ。その声で何度も、俺を呼んでくれた。
 手を伸ばし、届かないと諦めかけて。あの頃はそれで終わりだった。でも今は再び、手を伸ばせる。

 腕をいっぱいに伸ばし、お前のステラ・マリスを握り締めて──


 突き刺さるような痛みで目を醒ました。
 見慣れた調度品。甘やかな花の香り。ゆったりとした椅子から少し背を浮かせて辺りを見る。豪奢に整えられた英雄王の寝室だった。
 ずきずきと痛む、きつく握った左の拳を開く。八角の星の飾りが掌に食い込み、赤く痕が残っていた。
 ──そうだな。俺はもう、『ライツ』じゃない。
 掌の星を見、苦々しく笑う。差し込む西日を映し、小さな星は朱に輝いていた。
 歌の終わりが浮かぶ。今まで聞いたことはなかったはずだが、旋律と歌詞が脳内ではっきりと鳴り響いた。

あなたは闇の中でわたしを匿い、
御言葉は死の床でも決して揺らぐことはない。

 お前は俺を赦すのか。俺がそれを望まなくても。
 ひそやかな旋律の終わりと共に目を閉じる。名を一度呟くと、堰を切ったように涙が溢れ出した。次々、次々、拭うこともできなくて膝頭を濡らすばかり。

 英雄王は独り、夕闇の中で静かに嗚咽した。

 

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同題の宗教詩から。

​2011/07/04

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