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​オーバーキャスト

​#紫影のソナーニル #ルース×ルシャ

 それは空の向こうから。
 きん、と響く彼の音。知らず、ほうっと息を吐く。
 猫たちは一斉にそちらを見遣り、或いは視線の先の、或いは姿の見えぬ、小さく強い彼を想う。

 ハンプティ。誰がつけた呼名だろう。
 つめたい月とは対照的な。猫たちにとっては太陽のような。けれども、どこか不安定な。
 ハンプティは壁の上。落ちて、割れれば、それまでだ。

 彼は落ちている。何度も、何度も。
 けれども彼は割れたことはない。何度落ちても、軋む音を増やして戻ってくる。
 心配かけたな、と。明るく笑って。
 小さな体で、大きな夢を抱いて、彼は確かに生きている。

 ──なんて、かなしい。

 紫色の空の下に、壁を越えてくる影の下に?
 閉じ込めておくなんてできないよ。きっと素晴らしく青空が似合う人なのに。

 ルシャは青い空を見たことはないけれど、いつだったかルースが話すのを聞いた。空の色は、本当は紫でも灰色でもなくて、澄んだ青色なのだと。ルシャが纏う綺麗な青よりも、もっと綺麗な青い色。
 壁の向こうの怪物。西の魔女。それを倒せば空は紫じゃなくなって、彼は地上に、青空の下に戻れる。ここでは皆が信じている。猫たちも、少年自身も。そうやって何かを強く想っていなければ彼は擦り切れてしまうから。
「あーあ、奇跡がおきたらいいのに」
「ルシャ……」
 広場の茸に腰かけて、隣にいるリリィが名を呼んだ。ルシャは茸の端を千切り、ぽいっと放り投げた。願いを込めた訳ではなく、空へぶつけようとした訳でもない。蒼白の月が、見下す嗤いがちくちくと心を刺す。嗤うな、と。怒鳴りつけたい衝動が渦を巻く。
「ルシャ、悲しいの?」
「……うん」
 強く大きな彼を想う。鉄の小さな彼を想う。
 黒猫は目を伏せた。小さな顔が歪んで小さな笑みを形作る。綺麗な花のよう。記憶はないけれど、そんな風にリリィは思った。ふっと吹いたら散ってしまいそうな、小さくはかない花のよう。
 ヒトの言葉を持って、ヒトのように寄り添える。けれどルシャはネコビトで、ネコでもヒトでもないものだから、彼と同じになれない。違うものにもなれない。触れ合って、束の間、彼を慰めることしかできない。それが、とても。
「かなしいよ。とっても幸せ」
「しあわせ、なの?」
 首を傾げ、わからないよと言う。声には出ていなくても目がそう言っていた。“空色”の澄み切った瞳が。
 マオの言う通りかな。莫迦なリリィ。わからなくていいんだよ。あたしにだってわからないんだ。
 ルシャは小さく笑っていた。金の瞳はネコのように鋭く、ヒトのように優しかった。

 ──「好き」って。たったその一言なのに、な。

 


 今宵は黒猫が呼ばれた。毎晩行われるそれは最早儀式と言っても過言ではないだろう。それは恐らく、少年が自らを保つための。
 もうほとんど鉄になろうとしている彼が、あたたかい肌に触れて思い出すための。鼓動を失くした冷たい体に、束の間、熱をうつして宿すための。
 この少年はもう行為によって快感を得ることはない。体の内側はおおかた鉄に蝕まれ、感覚も失われかけている。ならばこの行為は結局、意味のないものだろうか。
 少年はゆるりと首を横に振った。無意味なんかじゃない、と。この熱も、感情も、空虚も、確かに在るものだ。そんな言葉で切り捨てられてたまるものか。ひどく哀しげな微笑みがそこにはあった。
「……ごめんな。いつも、無理、させて」
「無理なんかっ……してない……!」
 黒猫は憤慨して、少年を睨みつけた。
 無理だなんて。痛みのことならお門違いだ。望んでしてることなのに。そもそも、無理してるのはあんたの方だろ、と。言えないけれど、金の瞳はそう語る。
 少年は驚いた顔をして、肩を竦めて苦笑した。
「……そっか」
「そうだよ、だって……」
 くしゃりと黒猫の顔が歪む。大きな金の瞳が揺らいで、せつなげに眉を寄せて、けれども微笑んで。彼女は泣いていたのかもしれなかった。涙がないのが不思議なくらい、かなしいかたちだったから。
「私……わたしたちは、あんたのことが好きだから……大好きだから……ぁ……!」
 少年の指が漆黒の髪を滑り、黒猫の背筋が強張る。しなやかな尻尾がぴんと立って、白い肩が震える。激しくうねり、締め付けられても、少年はそれを感じ取るだけ。その奥にある鉄が軋むだけだ。
 やがて、ふにゃりと崩れた細い肢体を少年は緩く抱いた。あの夜から、少年は夜伽の間だけは頻繁に猫たちに触れていた。それまでは求められても触れなかった。虚しくなるだけだった。しかし今は、少しでも多く温もりに触れていたい。擦り切れてしまう前に、それがあたたかいとわかるうちに。
 少年は艶やかな髪に顔を埋め、低く呟いた。
「……ありがと、な」
 ひどくかなしかった。
 猫たちは皆一様に、彼のことを好きだと言う。少年も猫たちのことは好きだ。しかしそれは猫たちの「好き」とは少し違う。わかっているから猫たちは言葉を望まない。彼も好きだと言ってやれない。
 猫でも人でもないものと、人間ですらない鉄のなりかけが、擦れ違いそうな近さで夜毎肌を合わせ、言葉を交わすこの儀式は無意味なものだろうか。

 ──『なんでもいいよ。好きだ……。』

 だから、代わりに猫たちは鳴く。月に向かって、かなしい恋に焦がれて。
 嗚呼。少年は嘆息した。
 涙も流せない体では、感情は出口を塞がれ、内側に仕方なく留まっている。それが息苦しいほど膨張して、はち切れそうで。どうすることもできなくて。
 黒猫の髪に顔を埋めたまま、少年はそれ以上考えるのをやめた。
 こうして苦しめる内が、幸せなんだ。
 今、確かにここに在る熱だけが、彼にとってあたたかいものだった。

 

 

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ルスルシャへのお題:奇跡がおきたらいいのに/(たったその一言なのに、な。)/

閉じ込めておくなんて出来ないよ(http://shindanmaker.com/122300
個人的テーマ:「悲しい」と「愛しい」

​2011/07/22

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