明晰夢
#+C #ベルカ #オルセリート
ふわ、と頬を撫でられた気がして、ゆっくりとベルカは目を開いた。
辺りを満たす白い光と、たなびく薄いレースのカーテン。薄布の向こうに、光に溶け込むようにして立っている人影があった。
「ベルカ、どうして……」
見覚えがある、と一歩踏み出した途端にその声が聞こえた。悲しげな囁きだった。
ふと見れば人影はベルカが触れられるほど近くにいて、その姿をはっきりと捉えることができた。
淡い金の髪、静かな青の瞳、透き通るような白皙の肌、きらめくのは碧のプリムシード。もうすぐ王太子になる第二王子、ベルカの兄弟。『あの日』のではない、『今』のオルセリートがそこにはいた。
オルセリートは目を伏せ、そろりとベルカの左胸に掌で触れた。皮膚の下に流れる血を、脈打つ心ノ臓を確認するかのように。
「どうして……?」
ベルカは眉を顰めずにいられなかった。何が「どうして」なのか、オルセリートは言わない。問いがわからないのに、答えだけが頭に浮かび上がる。
「……そういう風に、決まってんだ」
胸元の手に自分の手を被せ、ベルカは吐き捨てるように言った。
オルセリートが目を見開き、翳っていた瞳に光が差す。驚いたように見えるその表情は、しかしすぐにまた曇ってしまった。諦めと慨嘆の混ざった不思議な表情で、オルセリートはベルカに縋り付いた。
「……遠いよ、ベルカ……」
──どうして……?
ベルカは思わず奥歯を噛み締めていた。何故か無性にもどかしく、苛立って、拳を震えるほど強く握り締めていた。
二人は座っていた。森で迷った子供のように、肩を寄せ合い、手を繋ぎ、言葉もなく虚空を見ていた。
確かに遠い、とベルカは思った。触れるほど近くにいても、何故かまだ遠いのだ。
たまらずひとつ溜息を吐く。頭上でふわりとカーテンがそよいでいた。
彼等は兄弟と呼ぶには少し遠く、他人と呼ぶにはあまりに近すぎた。共に王の血を継いでいるが、幼いうちから出来る限り接触しないようにと育てられたため、友のように互いを知っている訳ではない。
けれど今、互いに相手を深く知りたいと思っている。だから触れたい。近付きたい。それだけでは駄目なのだろうか。一体何が足りないのだろう。
──そういう風に、決まってんだ。
「……なぜだろう」
ぽつりとオルセリートが呟く。
「僕たちの間のことなのに……どうして、他の誰かが決めるんだろう」
あの日と同じ問いの言葉。けれどその瞳は少し翳っていて、それはあの日と違うものだった。
箱の中で可愛がられていた。そのことを彼も知ってしまったから。彼がそれまで見てきたものたちの隠された綻びを知ってしまったから。
緩やかに吹き込んだ風がカーテンを揺らし、さわさわと音を立てる。眩しかったほどの光こそないが、オルセリートの眼は力を失ってはいなかった。
今度は綺麗事とは思えずに、ベルカは深く息を吸い、おもむろに口を開いた。
「……知りたい、か?」
彼の予想通り、オルセリートは頷く。ちゃりん、とプリムシードが澄んだ音を立てて揺れた。
金と碧の鎖を指に滑らせながら、ベルカは微笑んでいた。それは驚くほど軽く──感触すらないようで──何故か口の中がひどく苦かった。
「……わかるわけないだろ……」
オルセリートは小さく、しかし確かに首を横に振った。
「そんなはずない。全ての事物に理由はある」
青の瞳に満ちるのは強い意思。けれどそれは毀れた剣にも似ていた。硬質ゆえに、ふと砕けてしまいそうな。
先に目を逸らしたのはベルカだった。指から滑り落ちたプリムシードがまた、ちゃりん、と小さく音を立てる。
オルセリートは何事かを言いかけては止め、言いかけては止めて、俯いた。繋いだ左手に力が篭もった。
「……そばにいたいんだ」
悲しげで苦しげな囁き。聞き取りづらい、ひどく掠れた声だった。
「もう二度と、あんな風に離れたくない……」
──目の前で君を失うなんて。
「君が……ベルカがいてくれなきゃ、だめなんだ」
きつく握られた右手が痛む。……否、そんな気がしただけだ。つきりと疼いたのはベルカの心だった。
嘆息して、ベルカは緩く手を握り返した。触れているのが見えているのに、空を掴んだような感触のなさ。
白い光。カーテンが風にさわりと揺らぐ。隣にいるのに、そこにはいない。悪い夢でも見ているみたいだ、とベルカは弱々しく苦笑する。
そうか、これは──
「ベルカ?」
オルセリートが首を傾げる。その姿さえ、吹き込んだ風に揺らぐ。まるで、水に写した姿が波紋に掻き消されてゆくように。
「ベルカ……ッ!!」
悲しい色をした青の瞳が遠ざかってゆく。オルセリートが手を伸ばす、その指先も、掠りもせずに。
そう、これは……
「オルセリート」
凛と声が響く。御伽話の、時を告げる鐘のように。
「おまえは、おまえの選んだ道を行け。俺にも俺の選んだ道がある」
自分が何を言っているのか疑問に思う間もなく、言葉が頭に浮かぶまま、ベルカは声を張り上げる。風の勢いが強まってゆく。時間がない、と直感した。
「交わらない道かもしれない。でも――目指すところは、きっと同じだから――」
はためくカーテンの向こうでオルセリートが頷くのが見えた。眦から零れた雫を慌てて拭う、その仕草がひどく懐かしく思えてベルカは微笑んだ。
「ベルカ、君に───……」
ざあ、と風が雑音を連れて渡る。葉擦れのような音が邪魔をし、声が聞こえない。唇が動いている、それは見てわかるのに何と言っているのかわからない。
名を呼ぶ。叫んだ。しかし相手に届いた様子はない。
遠のいて───遠のいて?
霞んで───霞んで?
白い光が───光が?
満ちて、溢れて、渦巻いて、呑み込んで、削り取る。
怖くはない。目を開けていられないだけ。こうしている間に、あいつは消えてしまうだろうけど。
そう、これは……ほんのちょっと、タチの悪い夢なんだから。
光は弱まらない。ベルカは左手をかざし、おずおずとそちらを窺う。
彼の予想通り、薄いレースのカーテンだけが風にさわさわと揺れていた。
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明晰夢
2011/08/16