雪情
#+C #連珠+歳星
山間の宮は真白くあったが、その日、雪は降っていなかった。
宮の奥にある居室で連珠は静かに時を過ごしていた。何も言わずただ座っている、それは瞑想にも近い。すぐにも訪れるであろうそのとき無様を晒さないために、少しでも心を落ち着けておきたかった。
彼女は大巫女だ。常に神聖で、気品に溢れ、儚くも堂々としていなければならない。大巫女が揺らげば皆が揺らぐ。逆に、皆が揺らいでも大巫女さえ沈着ならば事態は落ち着いた。少女の身ながら、彼女らは云わば地盤なのだ。大巫女を慕い、或いは縋る者たちの思いを背負って、民の支えとなり標となる。
連珠は俯けていた顔を上げた。
「大巫女様、天鼓がお目通りを願っております」
ゆっくりと息を吐き、努めて冷静に連珠は声を返す。
「通しなさい」
「はい」
女官がゆるりと簾を巻き上げた。赤い衣を纏った青年が帽子を取り、静かに部屋の中央へ進むと膝をついて頭を下げる。目を閉じていても、空気の流れや微かな音から連珠は一連の動作を感じ取れた。
「大巫女様、御挨拶に伺いました」
「行くのですね……」
「はい」
く、と息が詰まるような思いだった。連珠はよく視えないなりにも彼の姿を見納めておきたかったのだが、今、目を開くことはできなかった。開けば、零れてしまいそうで。
「私はベルカ王子殿下と共に、山を下ります」
「……ええ」
「束の間ではありましたが、貴女と昴様にお仕えできたこと、心より幸せに思います」
「……ええ……御苦労様でした……」
連珠は声が上擦らないよう気を張りつつ、祈るように胸を押さえた。
「天鼓、あなたに星の祝福がありますよう……どうか、壮健で」
「ありがとうございます」
また頭を下げ、コールが立ち上がる。ようやく目を開いた連珠の視界にあったのは、遠のく赤い背中だった。
彼は結局、ホクレアと同じ着物に袖を通すことはなかった。天鼓の名を授かっていながら。仄かな色合いの蒼穹天槍で赤い衣はいやでも目を引くというのに。
それは、今は亡き主を忘れぬためだったのだろうか。
私も幸せでした、と。語りかけるように伸ばした手を下ろし、連珠は再び俯いた。
あまり辛くはなかった。ぽっかりと穴が空いたような感覚も彼を喪ったときほどではない。伏せた睫毛は濡れていても、その表情は切なくも安らかな微笑みだった。
一人きりの短い間だけ、彼女は感情のままに涙を流すことができる。
「天鼓!」
突然名を呼ばれたコールが足を止めると声の主はもう隣にいて、足音から察すれば駆けてきたのだろうに息ひとつ切らしていなかった。
「もう行くのか?」
コールが頷くと少年は、寂しくなるな、と名残惜しげに笑った。
少年の名は歳星という。コールが彼について知ることはそう多くない。
巫ではなく、戦士でもない。大巫女・連珠が気に入って傍に置いているのだが、理由は側近であるコールにも明かされていない。恐らく知っているのは昴だけだろう。
しかし歳星の特別なところと言えば、ベルカに恩義を受けていることと、友の無念を晴らしにきたと自称している程度のもので、彼自身はごく普通の少年だ。その真面目で明るい性格と、子供ながら立派な働きぶりにはコールも好感を抱いている。
「歳星、頼むぞ」
少年は誇らしげに、生真面目な顔で力強く頷いた。
「本当は俺も行きたいけど、おまえが戻るまではここで待っててやるからさ。心配するな!」
ふ、と微笑んだ青年の新たな主が彼の名を呼んだ。
「連珠さま」
宮の奥にある大巫女の居室、そのほぼ中央で歳星は彼の主と向かい合っていた。
「昴さまと共に、暁さま方をお見送りしました」
「そう……」
吐息に乗せた声が冷えた空気に溶ける。相手の落ち着かない様子を察し、連珠はくすりと笑った。
「何か、言いたいことがあるようですね?」
図星を指され、歳星の肩がびくりと揺れた。
「え、と……お分かりですか」
「言ってご覧なさい」
歳星は口ごもったが、連珠に促されると意を決したのか深く息を吸った。
「では失礼を承知で申し上げます。天鼓が去って、寂しくないのですか?」
「……寂しいですよ。もちろん」
「なら、どうしてそう仰ってくれないんですか」
声には苛立ちが――大部分は己に対してだが、僅かに連珠にも向けられた怒気が込もっていた。
連珠が別れを惜しみ、悲しんでいるのは明らかだ。それを押し殺すあまり、今はまるで感情を失ってしまったかのように見える。彼女が何故そこまでするのか、歳星には全く理解できなかった。
今回だけではない。連珠は歳星に負の感情を明かそうとしなかった。まるで飾り物のように、僕として頼ることも使うこともせず、ただ傍に置いているだけだったのだ。歳星は自分の力不足のせいと思ってはいたものの、それでも腹立たしいものは腹立たしかった。無意識に素の言葉遣いに戻りかけながら歳星は声を荒らげる。
「そりゃ俺は天鼓に比べればまだ子供だし、弓の腕も未熟だけど……そんなことじゃない。俺、そんなに頼りないですか? あなたが一人で抱えこまなきゃならないくらい、そこまで俺は不甲斐ないですか」
「歳星、そんなことは」
言葉を遮るように歳星は首を横に振った。
「天鼓の代わりが誰かにできるなんて思ってません。でも、昴さまがいらっしゃる。みんなだっている。俺にも俺なりにできることがある。ほら、俺はいつだってあなたの傍にいるじゃないですか。あなたが嬉しいときも、悲しいときも、泣くときも笑うときも、俺はあなたの傍にいられる」
あいつと――月白と約束もしたんだから。
『歳星、俺、もっともっと修行して、立派な巫になるよ。大巫女様をお助けするんだ』
『それじゃあ俺は、もっともっと鍛練して立派な戦士になる。俺がおまえを守ってやるよ』
『いくら歳星でも本物の戦士にはかなわないよ』
『そんなのやってみなきゃわかんないだろ! ほら、約束!』
『……うん!』
歳星は膝の上できつく拳を握り締めた。
友は志半ばで倒れた。約束を守れなかったのはお互い様だ。歳星は繋いだ指の感触を今も覚えているのに、ふと思い出す指はいつも冷たかった。
守れなかった悔しさを奪われた怒りにすり替え、敵地に飛び込み、多くの死を見ながら、歳星は独り生還した。
月白は自分を恨んでいるかもしれない。仇をとってやれなかった。その絶望が歳星を足止めしてしまった。他人の命など誰にも背負えないと、諭す者が現れるまで。
――きっとその友達は、君を恨んでなんかいない。君が嘆くばかりで埋もれることなんて望まないよ。それでも罪滅ぼしがしたいなら、彼の志を継いであげたらどうかな?
歳星は巫にはなれない。だが大巫女の手足になることはできるかもしれない。そう思い、しかしどうしたら良いのか分からず、駄目元で聖地に参じた歳星を登用したのが連珠だったのだ。
「俺はあなたの供人です」
改めて宣言でもするように、玲瓏たる声で歳星は胸を張った。
「たとえ無礼者と叱られても、あなたが悲しんでいるのに知らん顔なんかできません」
微笑みは変わらずあたたかく、しかし彼が初めて見せる切なさもあった。連珠の眦から、ぽろりと涙が零れて落ちた。
胸のつかえがおりたようだった。連珠の空白を無理に埋めることをせず、彼女は一人ではないと歳星は言った。大巫女らしくあろうとするあまり、自ら壁を張っていたことに彼女自身気付いていなかったのだ。
「……歳星……」
堰を切ったように次々と涙が溢れる。本人ですら忘れていたが、連珠は大巫女である前に少女だった。止める術もなく静かに泣き続ける連珠の手を取り、しっかりと握って歳星は語りかけた。
「俺、強くなります。天鼓がいなくたって、俺があなたを守ってみせる。あなたも、昴さまも、この蒼穹天槍も、守ってみせます」
今度こそ、失わない。言い切った歳星の生真面目な顔は照れくさそうに崩れた。
導かずとも自ら道を見出す強さを歳星は持っている。子供の言うこと、と軽んじるには連珠もまた子供だった。
邂逅のとき感じた何かは、やはり間違いではなかったと安堵するように。報われぬ恋に再び落ちてゆくように。連珠はただ頷くことしかできなかった。
く、と息が詰まるような思いだった。連珠はよく視えないなりにも彼の笑顔を焼きつけておきたかったが、彼女の眼では表情の細部まで見て取ることはできない。
涙を拭い、連珠は祈るように胸を押さえた。
――嗚呼、願わくは。彼の者に福音を。歳星の名に恥じぬよう。
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連珠さまの設定が明かされる前に書いた話なので連珠さまは少女。
2011/09/24