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​迷い惑う

​#+C #リンナ×ベルカ #マリーベルプレイ

 マリーベルという少女がいた。少女は儚い陽炎のようで、小さな星のようで、少しぎこちない挙動や言葉遣いまでも洗練されて美しかった。その実体は王子ベルカが演じた姿に過ぎなかったが、マリーベルの出来過ぎた見目麗しさは或るひとりの衛士が一目で恋に落ちるのに十分だった。
 そしてマリーベルも彼に恋をした。すなわちベルカが恋をしたのだ。当時はまだ名も知らぬリンナ・ジンタルス=オルハルディという男性に、夜毎飽きずに訪れる彼と言葉を交わすうちに、ふとした仕草にも感ぜられる誠実さと優しさに、ベルカは惹かれた。
 リンナがマリーベルに恋していることは明白だったが、それはベルカに恋したことと必ずしも同義ではない。そもそも彼は少女の正体が王族の少年であることなど全く知らなかった。彼が惹かれたのは麗しの少女《マリーベル》だ。一度想いを打ち明けたせいもあってか、ベルカと主従関係を結んでなお彼はマリーベルの影を追っているように、ベルカにも思えることがたびたびあった。
 ベルカはリンナを、リンナはマリーベルを恋い慕っている。《マリーベル》と《ベルカ》は一致しないのだ。自分自身に嫉妬するなんて。しかし今更悔いてもリンナの記憶からマリーベルは消えてくれない。王府へ戻ってから時折ベルカが憂鬱に溜息を吐く理由のひとつがこれだった。

 


 とっぷりと日の暮れた雪華宮は、あたたかい蝋燭の灯と、心地よい静けさを纏っていた。
「それでは、私はこれで」
「ああ、また明日な」
 一礼して部屋を出てゆくリンナを見送り一人になったベルカは、何事かを呟いて大きな旅行鞄を開けた。

 しばらくしてベルカの部屋から現れたのは、シンプルだが可愛らしい黒のワンピースを纏った長髪の少女だった。それらは王府への道中、ベルカが素性を隠すために利用した衣装と同じもので、事情を知る者なら少女の正体を察することは難しくない。
 静まり返った廊下で足音を忍ばせ、少女は或る扉の前で止まった。扉と床の隙間から弱い光が漏れている。少女は相手がまだ起きていることに安堵し、拳をゆるく握って扉を控えめに叩いた。
「……どなたでしょうか」
「マリーベルをお忘れですか、いとしい衛士さま」
 緊張のせいか高鳴る胸を押さえ、ベルカがなよやかな声を作ってやると、途端に部屋からは慌ただしい音が聞こえだす。思わずくすりと笑った少女の前で、恐る恐るといった様子で扉は開かれた。現れたのは煉瓦色の髪と琥珀色の目をした青年の困惑を隠しきれない表情だ。リンナ、と名を呼び吹き出してしまいそうなのを堪え、少女《マリーベル》に扮したベルカは頭の中の台本通りの台詞をなぞってゆく。
「こんばんは衛士さま。夜の不躾な訪問をお許しくださいましね」
「で、殿下、そのようなご冗談は、その……」
「マリーベルですわ」
「殿下?」
「マリーベル」
「殿……」
「マリーベル」
「マ、マリーベル……」
 ちらりと見せた苛立ちに気圧されたようにリンナもようやくその名を口にした。《マリーベル》は満足げに頷いて微笑む。未だ数日前の記憶にある少女の美しい微笑みがリンナの脳裏を掠め、視線どころでなく思考までも奪われたように数回瞬いた。
「衛士さま?」
「……あっ、ええと……廊下は冷えますから、中へ」
 リンナが何気なく前に出した手を逃さずベルカは自分の手を重ねた。相手は見るからに動揺したが《マリーベル》は変わらず微笑み、それでいて焦れたように部屋へ入ると真っ直ぐ寝台へ向かった。
「殿下、あっいえ、マリーベルさん?」
 広い肩を押してリンナを寝台に座らせ、その口を塞ぐようにくちづけて少女は僅かに震えた声で囁いた。
「……今宵は、わたくしにお任せ下さいまし……」

 


 宣言通り、ベルカはリンナに色宿で仕込まれた愛撫と奉仕を惜しみなく与えた。元々彼のために覚えた技術なのだから惜しむ理由もない。逞しい体躯に跨りベルカは上機嫌で、しかし何かを不安がるように視線を泳がせたかと思えばすぐ我に返る、そんな動作を時折見せた。リンナは勿論ベルカを心配したが、ベルカが続けたがるので強く止めることは出来なかった。ヘアピースと華奢な体格に加えてふんわりと広がったスカートがベルカの下肢を完全に隠しており、まるで本当に女性を相手にしているようだった。目を逸らせずにいるうちに映像が他の感覚を越えていたのだろう。素朴な従者の自制心は途切れる寸前で悲鳴をあげていた。
「っ……殿、下……!」
「ばか……マリーベルだって言ってんだろ……」
 ベルカは健気に笑ってみせたがリンナの表情は晴れない。力なく息を吐き出し、ベルカは俯いた。ヘアピースの長髪が肌の上を滑り、広がって幾何学模様を描いた。
「……この格好なら、喜んでくれると……思ったのに……」
 ――違う。《マリーベル》のかたちを借りなきゃ抱きしめても貰えないからだ。
 マリーベルを装って訪れたのは少なからずリンナを喜ばせるためでもあるが、彼が喘ぎながら『殿下』と呼ぶたびベルカは喜んでいた。確かめたかったのだ。リンナはマリーベルの姿を前にしてもきちんと《ベルカ》を見ていると。
「なあ、リンナ……俺……いや、やっぱりいい……」
 ベルカは首を横に振り、重ねて誤魔化すように微笑んだ。
 ――こんなものはただの自慰だ。《ベルカ》のまま向き合う勇気もないくせに。
「っ……なんだろ……もうわかんねえ……」
「殿下……涙が……」
「大丈夫だ」
 ぽろぽろ。ぽろぽろ。ベルカは意地を張るが、一度溢れ出した涙は拭っても止まらない。
 瞳を憂慮に曇らせるリンナの唇を強引に奪う。舌の根から滲むような苦味がベルカを責めた。気付かない振りでもう一度、喰らいつくようにくちづける。
「リンナ、頼む……」
 濡れた苦悩の視線で、掠れた憐れな声でベルカはせがんだ。
「壊してくれ」

 


 翌朝、リンナは扉の前で頭を抱えていた。昨夜、ベルカが突然マリーベルの姿で現れ、リンナは誘惑され押されるままに流されてしまった。いつ眠ったのかはっきりと思い出せないほどだ。だが彼が目覚めたときには部屋のどこにもベルカはおらず、それらしき痕跡も残っていなかった。ならば夢だったと考えるのが自然だ。しかしあの感触は、と回想してしまったリンナは頬を赤くし、激しく首を横に振った。不覚どころの騒ぎではない。夢とはいえ、殿下にあのようなことをさせてしまうなんて。
 深く息を吸い、吐いて、思い切ったようにリンナは主の部屋の扉を叩いた。
「殿下、お目覚めですか?」
「……ああ。入れよ」
「失礼致します」
 精一杯堂々とリンナが部屋へ入ってみるとベルカは既に身支度を整えて寝台の縁に腰掛けていた。
「おはようございます、殿下。……その、お早いですね」
「まあその……うん」
 ぽりぽりと頬を掻き、ベルカは一つ息を吐き出してから言った。
「あのさ、リンナ。……夢じゃねーからな」
 何が、を問おうとしてリンナは顔中を真っ赤に染めた。
「殿下、それは」
「ばかやろっ、何も言うな!」
 ぱちん、と音を立てる勢いでベルカは自分の両耳を手で覆った。リンナは呆気に取られたが、やがて優しい微笑みを浮かべた。
「殿下?」
「何も言うなって言ってんだろ! わかってんだよ、自分でも馬鹿なことしたってちゃんとわかってんだから!」
 それでもリンナが口を開くと、ベルカは頭から布団を被ってしまった。文字通り顔から火が出てもおかしくないほどだった。
「どうかお聞きください。無礼な物言いになってしまいますが……殿下、私はそのままの貴方が好きです」
 驚きを露わに勢い良くベルカが顔を上げた。
「それ、どういうことだ」
「何と言いますか、またマリーベルを演じてくださって嬉しかったのも事実なのですが……私は貴方がマリーベルだから貴方をお慕いしている訳ではありません。貴方が貴方らしく、そして幸せであってくださることが私の幸せです」
「リンナ、お前……結構恥ずかしいこと言うよな……」
「そ、そうでしょうか」
「恥ずかしいっての。また顔赤くなっちまうだろ」
 ぼやくような口調と裏腹に満ち足りた溜息を吐き、ベルカは軽やかに寝台を飛び降りてリンナに正面から抱きついた。
「あのっ、殿下……」
「いいから」
 こういうときちょっと鈍いんだよな、とベルカは苦笑したが、同時に仕方ないかとも思った。早鐘のような鼓動が相手の動揺を正直に伝えている。ベルカは腕の力を緩め、ふわりと解れた表情になってリンナに凭れかかった。
「昨夜、ごめんな。でも俺やっぱりお前のこと好きだ」
「きょ、恐縮です」
 今度はおかしがるようにベルカの笑顔が変わった。そのまま女中が朝食に二人を呼びに来るまで、ベルカはリンナの鼓動がほんの少しずつ落ち着いてゆくのを聞いていた。

 

 

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​迷い惑う

​2011/12/23

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