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真綿と和毛

​#図書室のネヴァジスタ #辻村+白峰

 首を締めつけられて白峰は目を覚ました。勿論現実ではない。昏い夢の中で息が出来なくなっただけだった。
 今は何時だろうかと携帯電話を掴み、白光を放つ画面に目的を忘れて咄嗟に電話をかけた。お願いだからと念じる耳元で呼び出しのコール音は数回続き、ぷつりと小さな接続音に続いて無愛想な声が聞こえた。
「なんだ」
「辻村、起きてた?」
「起きてた。また変な動画に当たったんじゃないだろうな」
「そんなんじゃないけど……」
「じゃあ何だよ。言っておくが俺は忙しいんだ」
 少し苛ついているのは締切りが近いせいだろう。逡巡したが、背後で微かに物音がして短く息を呑む。
「そっちに行ってもいい?」
「お前、人の話を聞いてたか?」
「邪魔はしないから」
 お願い、と言うだけ言って白峰は一方的に電話を切ってしまった。相手を不機嫌にさせると分かっていたが切ってしまったものは仕方ない。それに行くと言った以上、行かなければ余計に機嫌を損ねてしまう。カーディガンを羽織り、部屋を出てみて予想以上の暗闇に足が竦んだ。
 別に暗闇が怖いわけではない。そこに潜む何かが――誰かが、じっと背中を見ている、から。
 どうして彼に来てくれと頼まなかったのか。どうして逃げてきてしまったのか。後悔がぐるぐると巡り、叫び出しそうなのを必死に堪えて階段を駆け下りた。
「つ、辻村……」
 扉を叩くとすぐに鍵の外れる音がした。開いた隙間へ雪崩れるように飛び込むと辻村の驚いた顔が目に入り、その平穏さに白峰の顔は歪んだ。
「辻村ぁ……」
「おい、なんで泣いてる」
「泣いてない……」
「泣いてるだろうが」
「泣いてないったら!」
 嘘だ。ほとんど泣いていた。一度崩れ始めてしまうと剥落は止まらず、ぼろぼろと弱味を曝け出してしまう。辻村は俯く白峰の肩を押してベッドに座らせ、少しの静寂の後、溢れ出した長い溜息につられてひとつ息を吐いた。
「怖い夢でも見たのか」
 揶揄を含まない問い掛けに白峰は黙って頷いた。学生寮で暮らしていた頃から度々あった遣り取りだ。こういうときばかり、と白峰がそれこそ泣きたくなるほど辻村は聡かった。
 辻村は頭を掻いて先ず明かりを点けた。机上のスタンドしか光源のなかった部屋が途端に眩しくなり、目を細める。萎れたような白峰の姿は痛々しいほど小さく見えた。
「コーヒーを入れてきてやる。少し待ってろ」
「いいよ、そんな気を遣わなくても……」
「勘違いするな。ついでだ」
「待って辻村」
 一人にしないで、と扉の方を向いた辻村の服の裾を思わず掴んだ。振り向く瞳は呆れていたが優しかった。
「わかったよ。一緒に来い」
「でも」
「じゃあ待つんだな」
「一緒に行く……!」
「おい、わかったから引っ張るな! 伸びるだろ!」


 ずるいなあ、と手の中のマグカップに向かって白峰は呟いた。薄茶色のコーヒーは当然のことながら何も言わないが、代わりに辻村がその声を拾った。
「何か言ったか」
「ううん、何も」
 机に向かう辻村の背中に白峰は得意の澄まし顔を披露した。ゆらゆらと湯気の立つコーヒーを慎重に一口飲むと、ミルクと砂糖たっぷりのそれは辻村曰く甘ったるくて気分が悪くなるそうだが、白峰にとっては丁度良いほろ苦さで優しく胸の底をあたためてくれた。
 何時の間にか白峰はこの部屋へ来た理由を忘れていたが、そもそも明確な理由があったわけでもない気がしていたし、『なんとなく』することこそ自分が本当に望む行動だということも都合良く忘れていた。心地良い執筆の音に誘われて白峰は静かにひとつ欠伸をした。
「なんか……眠くなってきた……」
 辻村は手を止めて振り向いた。
「呑気なもんだ。寝るならマグをこっちに寄越せ」
「寝てもいいの? ベッド占領するなっていつも怒るのに」
「いいさ。どうせ徹夜するつもりだった」
 また、ずるい、と白峰は思った。子供のような――事実子供だが、まるで心を許し、気遣っていることを隠すような――言い訳だというのに辻村はひどく穏やかな顔をしていた。
「俺が起きててやるから、安心して寝ろ」
「いつもそれくらい優しければいいのに……」
「てめえ、起こしてやらないぞ」
 拗ねたような物言いと照れ隠しの顰め面にくすりと笑いを零し、白峰は自分がずっと微笑んでいたことに気が付いた。警戒し幻惑するためのそれではなく、誰より自分が驚くほど柔らかく、ただ緩んでしまっただけの表情だった。
 辻村が左手を差し出し、白峰は半分ほど中身の残ったマグカップを手渡した。僅かに触れた指先から肩まで視線を滑らせてゆくと不思議そうな顔と目が合った。
「俺の腕がどうかしたか」
「……ううん」
 この腕がきっと引き上げてくれる。そう半ば確信にも近い期待があった。傍らに彼の腕があるから安心して沈むことが出来るのだと、そう思いながらも白峰は手を離した。
「なんでもないよ」
「意味がわからない」
「君って本当にわかってないね」
 いつもは冷たいとさえ思うその鈍さも、本当は好きなのかもしれないけれど。
「はあ?」
「おやすみ」
「おい待て、白峰」
 白峰は布団に潜り込んで目を閉じた。辻村は何度か名を呼んでいたが、その声は諦めたようにペンを走らせる音に変わった。カリカリともサラサラともつかないその音は心地良く、今度は朝まで目覚めずにいられる気がした。

 

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真綿と和毛

​2012/04/06

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