ブラインド・シャイニーブルー
#零の軌跡 #ランディ×ワジ
叩きつけるように雨が降っていた。これは良くない。ただでさえ落ち込んだ気分は底なしなのだ。
控えめなジャズが陰鬱にすら聴こえる。ゴムのような時間を無為にやり過ごす間に、ミラーボールのように輝いていた氷はすっかり溶けていた。虚勢のように原形をなくし、ほぼ無色になった僅かなアルコールを飲み干して何度目かの溜息を吐く。
『馬鹿ランディ――』
聞き慣れていた筈の台詞が頭の中で鳴り響く。消化不良で胸に凭れ、脳髄の底へ重石のように沈み込んでゆく。
残響に引きずられて思い出してしまう。拍子抜けにあっさりと過ぎた数時間前、都合良くぼやけた記憶の中で一人だけ鮮明な彼女はきっと泣いていたのだ。同じ台詞ならいつもの調子で怒鳴ってくれれば良かったのに、ここぞというとき弱さを見せるから女は上手く出来ている。おかげでひどい自己嫌悪だ。後悔のかけらもない自己嫌悪にまた自己嫌悪を起こすのは連鎖か渦か、巻き込まれる内に大本の原因も忘れてしまえたら少しは楽になれそうな気がする。
「あー……俺ほんとクズだわ……」
ランディはずるずると体を伏せ、カウンターに顎がついた。ロックグラスが手を離れ、滑らかな板の上をゆっくりと転がってゆく。グラスは危なげなく拾われ、バーテンダーが面倒くさそうに一瞥を寄越した。
「飲み過ぎでしょう。そろそろお帰りになっては?」
「帰るとこなんかねぇんだ、もう……」
「うちは24時間営業じゃありませんが」
「キッツいなー。ちったぁ同情してくれてもいーんじゃねぇの」
「自業自得なんでしょう」
「そりゃそーなんだけどさぁ……」
拗ねた子供と同じ仕草で頭を右に倒すと視界からバーテンダーの姿が消え、代わりに入ってきた艶やかなグランドピアノはいやに立派に見えた。楽器としての務めを果たさずとも、そこにあるだけでこの存在感である。虚しさばかり増幅してゆき、涙でも出れば少し変わるかもしれないと明るい思い出を掻き集めてみたら逆に腹が立ってきた。
軽やかにドアベルが鳴ったがランディはほぼ真後ろを振り向く気力もない。いらっしゃいませ、と型通りの挨拶に客はひらりと手を振った。少年と呼んでも差し支えない若い男だが、ホストのような洒落た格好をしていた。
「今夜はお一人ですか」
「たまにはね。接客ばかりじゃ息が詰まるだろ、君も」
「仰る通りで」
「君のそういうところが好きだよ」
少年は朗らかな笑みを浮かべながら、カウンターに伏したランディに目を留めて記憶を探った。赤い髪と橙色のくたびれたコートには見覚えがあったが、それだけだ。名前も知らない男。血のように赤い髪の青年。バーテンダーが肩を竦めて奥へ下がっていった。
ゆったりとした足音が自分の背後で止まり、ランディは重い体を起こして振り向いた。
「あんたは――」
見覚えがあるかもしれない、と思った。不思議なものだ。中性的な顔立ちは一度見れば忘れることなど出来ないような美しい造形だというのに、ランディが確かに覚えているのは聞き慣れない響きの名前だけだった。『ワジ』。だがこれは源氏名だろう。本人から聞いたわけではなく、以前彼の客がそう呼ぶのを偶然聞いた、と後付けのように思い出す。
その美人が一体何の用か。怪訝に見据えるランディの視線を受け流してワジは微笑んだ。
「こんばんは、お兄さん。いい夜だね」
「ひでえ雨だけどな」
「それがいいんじゃないか。隣、お邪魔するよ」
「別に構わねえが……なあ、あんた俺の知り合いか?」
「さあ。僕は知らないけど……」
如何にも意味有り気に、特に意味なんて無いと言わんばかりにワジは花弁のような唇を歪めた。
「これからそうなるよ」
見る者を怯ませる笑みだった。艶美な唇の形に目を奪われ、ランディは咄嗟にこいつは悪女だと直感した。相手は少年、男だというのにだ。しかし本当に男なのだろうか。少女と呼ぶには無理があるが、華奢な体格と優美な仕草は両極の中間にあり、必要に応じてどちらにも傾く、とでも言うべきで、元々どちらに属すものなのかは考えれば考えるほど分からなくなってくる。
「……男、だよな?」
「お兄さんがそう思うならそうなんだろうね」
ワジの金の瞳はからかうように笑みを湛えた。偶然同じ店に居合わせただけの見知らぬ男を惑わして笑っているならやはり悪女である。
「いや、でも絶対男だ」
「意地になってない? 女だったらどうしてくれるのかな」
「胸がないから保留」
淀みない返答にワジは声をあげて笑った。
「正直だね、お兄さん」
「だろ。嘘は苦手なんでな」
「嘘つき」
くるくると扱い慣れたカードのように言葉を操るホストだった。本気か演技か定かでないにしろ心から楽しんでいるように笑うワジを見ながらランディは感心していた。ホストを相手にするのは初めてだが、この少年が特別であることは良く分かる。自分の何が相手にとってどんな武器になるのか、恐らく性別を超越した域で知り尽くしているがゆえに同性をも幻惑するのだろう。最早瞬きまでもが美しく、酔った頭が未だ冴えないのがもどかしい。
しかし何故か、退屈しないのはいいが虚しさが付き纏う。口が滑るに任せて何もかもぶちまけてしまいそうだった。いっそ本当にそうしてしまいたいと一種の破壊衝動が抑えつけてもしぶとく鎌首をもたげるのだが、そんなものは微笑の色を変えるだけで躱してしまうのがワジだった。
「だめだよ、まだ秘密にしとかなきゃ」
肩が触れる距離にいながら遙かな天から俯瞰するように、ワジは指の一振りで容易く相手の口を塞いだ。自分がどんな顔をしていたのかランディには良く分からないが、余程情けない顔だったと見える。ワジがまるで自分自身の傷を撫でるように苦笑したからだ。
「今はこれだけ聞かせて、正直なお兄さん。……つらかったかい?」
ランディにとっては不思議な問いだった。赤黒い記憶の中に感情は残っていない。怒り、或いは虚しくなるのは泥のような塊を一掴み引き上げた現在の自分であり、泥の中に沈む過去の自分が何を思っていたのかはちっとも分からない。血の臭いに体の内側がざわつくような昂揚はそれが日常でなくなって初めて嫌悪するようになったもので、視界を真っ赤に染めた記憶も今となっては無味乾燥な映像に過ぎなかった。
きっと何と答えても自分は慰められるのだとランディは思った。それなら『正直なお兄さん』は正直に答えてやればいいのだ。
「……わからねえ。たぶん何とも思ってなかったし、今だってそうだ」
ワジは一度言葉を飲み込むように目を閉じ、開いた時には深い抱擁の笑みを浮かべていた。
「可哀想に」
「かわいそうとはなんだ」
「慰めてあげようか」
金の瞳は悪戯を思いついた子供のように期待を潜めて閃いた。その目だけで意図は読めたも同然だった。
「大した悪女だ」
ようやくランディも笑った。ワジは唇に鮮やかな慈悲を載せてこう囁いたのだろう。望むならその目を塞いであげると。
向こうの理由は何だっていい。夢のように過ぎて夢のように忘れられる、そんな夜になればこのやり切れなさも飲み下せそうだ。たったそれだけの予感でランディが白い手を取ることをワジは見越していたのだ。天使の救済か悪魔の甘言か、結局行き先が夜の街ならどちらもあまり変わらない。
頭が鈍ったままなのは酒のせいか、喚く雨のせいか、それとも隣の不思議な生き物のせいか。少年の形をしたワジという生き物が憎らしいほど無邪気に微笑んでいた。
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BGM:red blues/椿屋四重奏
2012/09/27