17gの針
#+C #プロキシマ #モブ女
プロキシマは市街の大通りから細い横道へ、一瞬の躊躇いもなく入り込んだ。美しいが気怠そうな女が寂れた雰囲気の扉の前に立っている。女はプロキシマに気付くと何故かひどく呆れた顔をしたが、彼は気に留めなかった様子で、あからさまに溜息を吐く女の目の前まで歩いて行った。
「また来たね、優男」
「はい、また来ました。奥の部屋空いてる?」
「空けといた。そろそろ来るだろうとは思ってたんだ」
女は細い手で扉を開いた。プロキシマは中へ足を踏み入れ、普通の宿屋ではまず聞かれない音とわざとらしい芳香に思わず苦笑いした。外観こそ寂れているが、ここは変わらず栄えているらしい。
「ご指名は?」
「貴女」
「あたしは売り物じゃないっつの。何度も同じことを言わせない」
じゃあ誰でもいい、とプロキシマが言うと、女は顎で廊下の先を示した。
「あの娘と遊んでやって」
ちょうど手前の部屋から出て来たばかりの若い女だった。丸く大きな目が際立つ幼げな顔立ちで、鳶色の髪を肩口までの長さに揃えてある。
「髪短いの好きだろ、あんた」
「特別好きなわけじゃないんだけどなあ……長いと絡まるからさ。うーん、可愛いけど、やっぱりもう少しおっぱい大きい方が好みかなー」
わざとらしく品定めを始めるプロキシマの腕をつつき、女が素早く囁く。
「今日から。あんたが最初」
えー、とプロキシマは声を上げた。それは不満よりはむしろ吃驚を表すものだった。
「それ、あの娘かわいそうじゃない? いいの?」
自覚があるなら加減しなさい、と女は言った。プロキシマが終始微笑を貼りつけているのとは対象的に、ちらりとも笑わない。いつものことだ。彼はこれもまた気には留めなかった。
「まあいいや。姐さんがいいって言うなら、遠慮なくいただこう」
ごゆっくり、と突き放すように気怠い女が言う。プロキシマは平坦な笑みのまま、ぎこちない足取りで近寄る女の肩を抱いた。
荒い呼吸と甘ったるい香のせいで少しくらくらする。感覚を下半身に引きずられながらプロキシマは笑みの色を変えた。
「君が何度目でも、特別優しくするつもりはないけど」
体を売って金を得る。或いは逆。娼婦も衛兵もこの点においては同じと言えよう。故に、プロキシマの心中には一方的な同情が生まれる。
「変に痛くはしないから、そこは安心してくれていい」
女の引き攣れた短い悲鳴――嬌声は神経をかき乱す。頭の中で爪を立て、ぐちゃぐちゃにしてしまう。それを妨害だと思えるほど真面目に何かを考えてはいなかったが。プロキシマは女の額に貼りついた髪を掻き上げた。
「気持ちいいでしょう」
「あぁ……だめ……」
「君、結構いいよ」
名も知らない女を抱くのは八つ当たりだと思う。
息を詰め、緩やかに吐き出す。痙攣するような震えが女の内部からプロキシマへと伝わった。女の視線は濡れ、放心して天井に向いていた。
愉快になるくらい惨めだ。家に帰りたくないから、ただそれだけのために色宿に逃げ込んでは朝まで居座り、やることはやり倒して対価を支払う。見目が良い上に羽振りも良いと、上客にまで成り下がった。
プロキシマは唇を深い弧に歪めて腰を引いた。
「まだ終わりじゃないんだなぁ。悪いね」
突き上げると嬌声が飛ぶ。単純な運動を繰り返した。髪を振り乱し、喉を反らして女が鳴く。感じているのは快楽なのか苦悶なのか、とうに読み取れなくなった表情の女を見下ろしながら、プロキシマは更に嗤った。
妹は違う。あの男はもっと気を遣い、丁寧に、壊れ物を扱うように彼女に接しただろう。不器用な手でそっと触れ、彼女に少なからず幸福を感じさせた。そうした過程を経た結果の婚姻と妊娠なら、本人さえ幸せならばプロキシマは口を挟むつもりはない。しかし相手の男に関しては、妹の最も大切なもの、代えの効かない唯一のものを跡形もなく壊したのだから、どんなに信頼のおける良い上司であろうと、兄としては到底許せるはずがないのである。
少し休ませて、という主旨のことを女は喘ぎ喘ぎ訴えたが、聞き入れられる様子はなかった。
長く柔らかいブロンドの髪も、血が透けてほんのり色が差す白皙の肌も、湖面のようにきらめく碧の瞳も、目の前の女は持っていない。その方がプロキシマには良かった。似ていなければいないほど良い。妹が受けた狼藉を想像して腹を立てながら、それより余程無茶な行為を似ても似つかぬ女に強いて、これよりはマシだったろうと自らを慰める不甲斐ない兄だった。
性交は潮水と同じだ。飲むほどに渇き、ささくれた傷口を抉る。欲しているのが女なのか、快楽なのか、罅割れそうな行為なのか、それとも、妹と義弟の交わりを想像することなのか、分からなくなるまで。
元はと言えば、籠の中の小鳥より大事に守ってきた妹と狼藉者を引き会わせてしまったのも自分だった、とプロキシマは一人で苛立ちを募らせてゆく。休暇を取ったくせに暇そうだからと実家へ連れ込んだのが間違いだった。そのときはプロキシマ自身にとっても良い暇潰しになると思ったのだ。後にこうなると分かっていれば、意地でも屋敷には入れなかったのに。
家に帰りたくないのは、そこが最早彼の知る『家』ではなくなったからだ。上司であり義弟でもある男に寄り添い、身重の妹が暖かく微笑むからだ。プロキシマがどう足掻いても引き戻せない場所へ行ってしまったというのに、彼女はとても幸せだと笑うからだ。やり場のない自己嫌悪の繰り返しに吐き気がするからだ。捌け口にされる女は堪ったものではないだろう、とは彼自身の言であるが、それでも尚、解消する術を女にしか見出せない辺り、本当に救い様がない、とも彼自身の言であった。
女は頼りない手をゆらりと持ち上げ、プロキシマの肩を掴んだ。息も絶え絶えに懇願する。
「ねえッ……聞いてるの……」
「言っただろう。君が何度目でも、特別優しくするつもりはないって」
女の表情は変わらない。ふ、と蝋燭の灯が揺らぐ。プロキシマは寒気がするほど楽しそうに笑った。
「夜のうちに眠りたかったら、もうちょっと頑張ろうか」
ふう、と息を吐き出すと舞い上がる埃が白く光って見えた。既に日は高く上っている。女はまだ眠っているだろうか。悪夢でも見ているのかと思うような険しい寝顔を思い出し、プロキシマはくすりと笑った。
あの娘はなかなか良かった。丁度いい時間だし、適当なところで昼食を取ってから帰ろうか、と一歩踏み出そうとして、視線に気付いた。大通りへの入り口にあたる場所でプロキシマを、その後ろの薄暗い通りを睨むように見ている。実際には特に感情を荒立てていないことは経験から察した。雑多な市街の昼にはそぐわない、漆黒の巌のようなヴィクゼンだった。
いつ見ても立ち居振舞いが堂々としすぎている。ざらつく煉瓦を背に佇むヴィクゼンの固い視線に頭を掻きながらプロキシマは彼に近寄った。
「妻子持ちのくせに、ああいうところをじろじろ見るもんじゃありませんよ」
一拍遅れて、探した、とヴィクゼンは言った。そうですか、と言ってプロキシマが先に歩き出す。人波を掻き分ける、というよりは隙間を縫うようにスイスイと進む背から目を離さずにヴィクゼンは後を追った。
特に賑わう商業地区を離れると、長閑な静けさが騒音を少しずつ掻き消していった。先行する部下の足が彼の実家へ向かっているらしいことに安心しながら、ヴィクゼンは問うた。
「何故、すぐに帰らなかった」
「帰りたくないからです」
「彼女はずっと待っていたぞ」
プロキシマは振り向き、”あ”に濁点を付けたような、柄の悪い声を出した。その意味がまるで分かっていなさそうなヴィクゼンの無表情に溜息を吐く。くるりと前方に向き直り、止めていた足を進めるが、速度は先程より幾らか上がっていた。
「分かってますけどね、『彼女』が帰りの遅い兄を心配してくれてることくらい。けど嫌なものは嫌なんですよ。天使のようなあの子が誰かさんに『愛しいエドヴァルド』なんて言うのを聞かされるのは御免です」
ヴィクゼンが言葉に詰まる音がした。猛禽の鋭さを備えた双眸が溜息に揺れる様子がプロキシマには容易に想像できた。
「ねえ、信じられませんよね中隊長? ちょっと前まで俺の可愛い妹だった女性が、誰かさんのおかげで可愛い細君になり、もうじき母親になるだなんて」
「……まだ気に入らないのか」
「死んでも気に入らないんでお構いなく」
一息を挟み、でも、とプロキシマは言葉を続けた。
「あの子がそれで幸せだって言うなら、俺に反対する理由なんてないでしょう」
「……お前」
「その代わり、あの子を一滴でも泣かせた日には、例え中隊長だろうが一発容赦なくブチ抜きます」
何を何で、と迂闊に訊けない笑顔にヴィクゼンは首筋が粟立つのを感じた。多少行き過ぎるところもあるが良い兄だと褒めようとした矢先の一衝きだった。思わず額を押さえて微かに首を振る。やはり義兄としては危険過ぎるという認識を改めるばかりであった。
「ほら、ここからは仲良しでいきましょう、義弟よ」
立派な門構えを前にしてプロキシマは勝ち誇ったように微笑んだ。白黒つけて気持ち良く剣を収める、彼の一番美しい顔である。つくづく恐ろしい義兄だ、とヴィクゼンが言うと、彼はこう返した。
「俺はね、中隊長としてのあんたは好きです。ただし妹に近寄る男はみんな害虫以外の何物でもないと思ってますから、そのつもりで」
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17gの針
2013/03/22