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喫煙性愛

​#オリジナル #習作

 昼間から退屈そうな彼の隣で、私は文庫本の頁を捲る。そろそろやめようかと思っている。それというのも彼が火のついた煙草を節くれだった人差し指と中指の間に挟んでいるせいで、それがずっと気になって内容が全く頭に入ってこない。彼は全くお構いなしで、これ見よがしに溜息なんて吐きながら雑誌をぺらぺら捲っては戻し、捲っては戻して、それで余計に私の気が散った。
 未成年者の横で煙草はやめてください。この言葉は私の頭の中に浮かぶだけで、口から出てはいかない。かつて私がそう言ったとき、彼はこう言い返した。
「本当にやめてほしいか?」
 何を言ってるんだこの野郎、と目で訴えると、今度は「君が本を読むのをやめたら、やめる」と無茶を言った。書物が極めて中毒性の高い嗜好品であることは言うまでもなく、私が自他ともに認める本の虫になったのは、単にこのふくよかな毒にやられてしまったからに他ならない。とは言っても四六時中を本を読むことだけに費やしているわけではないが、私はそもそも彼の蔵書を楽しむために彼の部屋に来ているのだし、一度読み始めたら大抵の本は終わりまで一気に読み切ってしまう。読書家とはそういう効率の悪い生き物で、決して細切れの時間にちびちび読み進め、奥付を見届ける頃には最初の頁に何が書いてあったかを忘れてしまうような勿体無い読み方はしないのである。と、それはともかく、変に苛々するような問答はこの一度きりで、しかし二人揃ってその一字一句をハッキリと覚えてはいるようだった。
 彼は煙草が好きだと公言している。一日に二箱は吸うし、銘柄にもこだわりを持っているらしい。一方、私は煙草の臭いが嫌いで、彼の体と部屋に染み付いた苦い臭いも、思わず顔を歪めてしまうくらい大嫌いだ。だから近寄りたくもない。実は私もそのことを公言していて、どうしても煙草を吸うならせめて換気扇の下に行ってほしいと何度も言っているのだが、彼が私の言うことを聞く気なんて欠片もないことは現状が物語っている。
 大体、煙草なんて百害あって一利なしの代物に金をつぎ込む彼の気が知れない。吸いたくもない副流煙で真っ黒に汚染される私と本の身にもなってほしい。そんなものより、新しい本の一冊でも買った方がよっぽど文化的で建設的で有益だと思う。うん、心の底からそう思う。
「全然進んでない」
 うるさいうるさいうるさい、誰のせいだと思ってるんだ。かっと頭に血が上る。彼が手を伸ばして頁を指さした拍子に例の煙草臭が振りかかったせいで、私はこの上なく不愉快な顔で、邪魔な指を平手で叩いた。
 大人しく指を引っ込めた彼は拗ねたような様子で何か呟いた。どうせ、何も叩かなくても、とかそういう泣き言に決まっている。指の間に挟まった煙草がおもむろに持ち上がって、か細い煙が尾を引いて流れて、唇を舐めた彼が少し指を伸ばして、薄茶色の紙に巻かれた吸口が、湿されて軽く開いた唇に触れる、寸前で彼ときたらニヤニヤ笑い出した。何見てるんだ、と言われて初めて、自分が一部始終を食い入るように見つめていたことに気付かされる。慌てて文庫本に意識を戻すがとうに手遅れで、最早活字にも見えない白黒の模様に目が滑るばかりだった。
 彼がさも美味そうに煙草を吸っている。指で唇を覆い、穏やかに目を伏せて息を吸う度に煙草の先が鮮やかな橙色に光る。一応気を遣ってはいるのか、私と正反対の方向へ息を吐く度に紫煙がふわりと舞い上がる。今すぐやめろと言って蹴飛ばしてやりたい。取るに足らない、本当に些細な一々さえ視界の端にちらついて全く集中できない。苛々を募らせて私はついに本を閉じた。これはもう一度、日を改めて頭から読み直す。
「あのね――」
 ほんの数秒しか経っていないのに乾いて艶のなくなった唇から、わずかに見えた赤い舌先と、負の放物線を描くように唇から離れて彼の膝元へ下りていく憎らしい薄茶色の吸口。振り向いてから一秒足らず、彼は唇を閉じていたと思うが、容赦なく顔面に吹きかけられた煙が目に沁みて私は咳き込んだ。
 最低、最悪、そのまま肺がんになって禿げろ、馬鹿、みたいなことを口走ったと思う。咄嗟に出た言葉だったからあまり良く覚えていない。煙草なんて嫌い、大嫌い。ここまで嫌煙家の私が彼の部屋へ通い続けているのには、彼のヤニ染みた蔵書の豊富さの他にもう一つだけ、自分ではどうにも出来ない大きな理由があって、不運なことに彼もそれを良く分かっている。分かっているから私がいるのに遠慮も会釈もなく煙草を吹かすのだと思う。
 ここで明らかにしておかなければならないのは、私は彼のことが好きなわけではないということだ。正しくは、好きではあるのだが、無償で趣味の良い本を幾らでも読ませてくれる良い人という認識でしかなく、恋愛感情を抱いているわけではない。彼も同じく、私に対する恋愛感情は無いと言い切れる。初めて彼の部屋へ呼ばれた時、何の言い訳か彼は同性の、つまり男の恋人がいることを私に告白した。

 私はそんなことはどうでも良かった。ただ彼が無駄に本棚の肥やしにしているという数万頁に埋まりたかったから。それでも、彼がヘビースモーカーだと事前に知っていたら丁重にお断りしたに違いない。私は本当に煙草が嫌いだった。誰かが煙草を吸うところを意識して見たこともなかった。
 今でも鮮明に覚えている。ゆったりとしたワンルームは、私が最初に来たとき、今となっては世界の七不思議に数えたいほど清潔感があって、煙草臭いだなんてそれだけは妙に敏感な私でさえ感じなかったのに、そうして油断しきった私の目の前で彼は悠々と煙草を咥え、火をつけたのだ。眩しいくらいの蔵書を無造作に指さして、好きに読んで、と言いながら苦い紫煙を吐いたのだ。ポケットから煙草の箱と安っぽいライターを取り出したときの指の動きも、煙を吐き出す唇の動きも、暴力的な衝動にやられて気が遠くなりそうだったことも、よく覚えている。先の、自分ではどうにも出来ない大きな理由というのはこのときに生まれて、同じ瞬間に目が合っていた彼にも気付かれてしまった。だから何というほどのことではないのかもしれないが、この理由があまりに大きすぎて私は彼の部屋へ通うのをやめられないし、彼は面白がって、未成年者の私の目の前でも煙草を吸うのをやめない。私だって何とかしたいとは思う。けれどそれは一目惚れと同じくらい、一息で天地も引っ繰り返しかねない不意討ちだった。致命傷を負った私は、開きっぱなしの生傷に紫煙が沁みる度、どうにも出来ない疼きに苛々するしかないのだ。

 私は、彼の煙草を吸う姿が、それだけはどうしようもなく好きだった。
 

 

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スモーキング・フェティシズム

​2013/05/31

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