アルキビアデスの哄笑
#零の軌跡 #ヨナ #モブレ
不感症になりたかった。
夕方だったとヨナは記憶している。凍るような風が吹きすさび、昼まで晴れていた空は赤暗く曇り、寒い寒いと誰もが口ずさむ、小春の皮肉に塗れた夕方だった。
男は優秀な研究員だった。それなりに大きなチームを率い、それなりの地位も名声も、仲間の信頼も、幸せな家庭もあった。対するヨナは、確かに天才的な頭脳を持ってはいたが、イタズラ好きの悪癖について評価に書き添えられなかった試しはなく、頭が良いから分別もあると勝手に錯覚していた大人が時に震え上がるほど子供らしい子供でもあった。
話がある、と男に呼び止められたとき、ヨナは嫌な予感がしていた。男の顔には見覚えがあり、名前は知らなかったが、少なくとも自分より立場が上の人間だということは容易に察せられた。そういう人間が取り立ててヨナに聞かせたい「話」とは、大方彼の素行に対する小言だと知っていた。ちょうどその日の昼に仕掛けたばかりの、まだ誰にも気付かれていないはずの小さな悪戯を心当たりに、今度は何をしくじったのか真剣に考えながら、ヨナは男の後について、研究所二階の西端に位置する男の個人研究室へ入った。
馬鹿だった。考えが足りなかった。阿呆だった。浅はかだった。頭がスカスカだった。本当、何を幾ら並べても詰まるところ馬鹿以外の何者でもなかった。
窓ガラスが強風でガタガタと鳴っていた。男は何かを決断した顔でヨナの肩を鷲掴み、間髪入れず接吻した。ヨナが瞬きを一つする間もなく拒絶を示したのは、立派とも言えるほど俊敏だったが、突き飛ばされて僅かによろめいただけの男はまた手を伸ばした。
「ふざけんなよ」
冷たい声だった。ヨナは怖気がしていた。同性、あるいは年端も行かない子供に欲情する特殊な性的嗜好が世間には存在する。知識はあった。知らなければ気付かなかっただろう。拒絶が埋め尽くした。男が縋るような目をして何を望むのか分かる。安易な停止を望む思考は軋みながら速度を下げつつあった。
「触るな。ボクはホモじゃないし、アンタにも全く興味ない」
「ヨナ君、お願いだ。ずっと君を欲していた」
「嫌だ」
「待ってくれ!」
男は慌てて手を掴み、扉に手をかけようとしていたヨナは険しい顔で振り返った。気持ち悪い、と。
「なんでだよ! 嫌だって言ってんだろ!」
「何でもいいんだ。君を私のものにしたい」
致命的な失敗は、その一瞬に声が出せなかったことだった。完全なる理解不能に陥ったことだった。男は掴んだヨナの手を力任せに引き、冷たい床に組み伏せた。強かに打った頭の中がぐわんと響いた。
「そう、モノだ。君はモノでいいんだ。君は何もしなくていい。面倒なことは全て私が代わりにしてあげよう。だから安心して、私に全て任せてくれ」
餌は与えるから、口を開けて待つだけの間抜けな雛になれ。ヨナは痛む頭でそう解釈した。気違い野郎、と呻く。
「アンタのオモチャになれってのかよ……!」
「とんでもない。君の意思は尊重する」
だが、まあ、概ね合ってもいるのかな。確かにそれは独り言だった。うっかりそれを聞き届ける近さに他人を置いたまま口に出した男が間抜けだったのだ。平坦に吐露された声が凍りつかせたかのように、ヨナは今度こそ思考停止した。
頭では拒絶を単調に叫び続け、身体は確かに違った何かを得て震えていた。たまらなく嫌だった。絶対に認められなかった。ぐちゃぐちゃに混ざった感情の渦の只中で視界がぼやけてもなお攪拌され、ヨナはただ歯を食いしばって堪えていた。
泣いてたまるか。今更涙ごときで状況が改善するとは思えない。だったら、無意味に弱さをひけらかすような真似はしたくなかった。
呻くヨナの体を押し潰すように犯しながら男は恍惚していた。逆上せた顔に汗を流し、何の余りか目に涙すら浮かべ、肩で息をしながら唇の端を吊り上げていた。
「君は知らなかったようだがね、私が愛するのは女ではなく少年だ。知らなかったろう。更に君は、年齢、外見、性格の組み合わせが最も私の理想に近い。素晴らしい、ヨナ・セイクリッド! この気持ちが分かるか? 君を知ったとき、私は初めて運命とやらを信じそうになった」
熱に浮かされたような覚束なさで、しかし発音は確実に男がそう言った途端、ヨナは平静を取り戻した。微睡から覚めたように、水を打ったように目の前がクリアになった。手に負えないほど膨れ上がっていたはずの渦は波が引くように消え去っていた。
「――なんだ、それ」
すなわちヨナは記号にすぎないという意味だった。同じ条件を揃えたモノならば――否、更なる理想の具現と出会ったなら、彼は迷いなくそちらを選ぶという無粋な告白だった。彼にとってヨナは本当にモノでしかないのだった。
ヨナは安心していた。かさかさに掠れた声で笑い出しそうなほど気が抜けてしまった。唇が割れそうに引き攣れた。口の渇きを思い出した。体内を抉られる不快感が戻ってきた。そして滑落めいた惨めさに悪態を吐いた。
変態の標的が自分だけではないと分かった途端の浅ましい安堵。男が自分を愛してなどいないことへの明らかな失望。すなわち愛されたいという原初の願望。見境なく厚かましいそれへの羞恥と、否定できないが故の稚拙な嫌悪。
「ありえね……マジで引いた」
男はそれでいいと言うように笑い直した。それでこそだと満足気でさえあった。思い違いも甚だしい。最早ヨナの視界に誰もいなかった。不愉快な惨劇を塗り潰す空想の持ち合わせがないことには舌打ちしたが、とにかくそれで気が楽になってしまった。
男の震えが伝わり、全身の毛が逆立ち、呼吸が一瞬止まった。声にならない苦痛が漏れた。爪先が痺れ、滲む感覚の連鎖に、重ねてひどく失望した。
心が──そうとしか呼称しようのない、脳の一部分が──その一瞬の内に分解・再構成したのだと思った。ネジの一本、歯車の一枚さえ以前と何も変わりないのに、構成を見直せばこうも効率的になるものだと文字通り体感した。以後参考にしよう、と無感動な冗談さえ浮かんだ。
男は何も与えない。快も不快もない。ただ時間と体力を浪費させられるだけなのだとヨナは考えた。モノでも記号でも何でもいいが、相手にとってはツールにすぎなくとも、その下位に甘んじるのは彼の矜恃が許さない。そう、自分は使われるのではない。頼まれたから仕方なく使わせてやるのである。時間と体力の浪費。実に人間らしい。
考えながら眉を顰め、唇を噛んだ。今回ばかりは確信がなかったのだろうと後に思い返して歯軋りする羽目になる。同情の余地はまるでないのに、結局自分が男より『上』とは思えなかったのだと。例えば美談に言い繕っても、その日、ヨナ・セイクリッド少年が全くの他人に一方的に犯された事実は変わらない。
腹の中を勝手に掻き混ぜられるような、異様な感覚がじわじわと這い寄りつつあった。ヨナは思った。不感症になりたい。誰彼構わず節操なく善がらない身体があればいい。
ヨナは男を憎んではいなかった。正確を期すならば何も思わず、どうでもいい、と流しておくことで平静を保っていた。ただ、みっともなく狼狽え、余計に男を喜ばせていた自分が心底嫌になったのだった。
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ものすごい尻切れなのでいつか補完したいと思ってはいる
2013/07/03