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​野花

​#+C #十六夜→天狼 #ヘクトル

 ぼんやりと後頭を眺めていた所為で、十六夜は不意に振り返った天狼と目を合わせてしまった。森から戻ったばかりの天狼はまだ愛刀を背負い、狩場の警戒心のまま振り向いたが、視線の主がわかると肩の力を抜いた。そして、何故見ているのか、何か用事があるのかと尋ねるように見つめ返した。十六夜が慌てて首を横に振ると、怪訝な顔をしながらも踵を返した。
 雲の切れ端のような感情の塊が常に十六夜の胸の内を漂っていた。静かにしているかと思えば、黙々と膨らんで嵐を呼び起こし、そこら中を荒らすだけ荒らしてまた大人しくなる。そうして更地と化す心に露わになる何かを、まだ彼自身すらその形を知らない花の種めいた何かを、あの一見能天気な青年にも根付く厄介な習性が拾い集めていやしないかと内心気が気でなかった。
 何しろ狩りをする人間は視線に敏感である。「目を見れば言いたいことがわかる」とは良く言ったもので、その一方的で無機質的な理解を十六夜は恐れた。見て見ぬふりが出来るほど器用だとは思えない彼には、まだ見つけてほしくないのだ。そのくせ、よそよそしく距離を置いた背中や横顔を物言いたげに目で追ってしまう。
 まるで恋の暗闇に胸を詰まらせて窒息する少女と同じだ。
 十六夜の中の冷静な十六夜は自らをそう診断していた。視界の端に映り込む程度なら問題ないのだが、ある距離より近くに彼が侵入すると途端に何だか落ち着かなくなり、その辺りにあるものを手に取っては戻してみたり、外にも聞こえそうな心拍を元に戻そうとして殊更ゆっくりと息を吐いてみたり、口の中が渇き、舌の根が重く痺れて上手く話せなくなったり、といった症状を訴えるのが年頃の娘であったなら、病名は言わずもがな明らかだ。薬方師は勿体ぶって、残念ながら私の手には負えない、などと言いながら気休め程度の鎮静剤を処方するに違いない。ついでに、勇気が出る薬だとかなんとか、訳知り顔で善意の嘘をつくのである。
 しかし、と十六夜の中の冷静な十六夜の所見は続いた。自信がない。恋とかいう代物は、自分が少女ではなく、相手もまた少女ではないというだけでこんなにも現実味が失せるほど朧げなものだろうか。ときに当人の思考すら追いつかないほど唐突に、大胆に人を突き動かす衝動の源が、こんなにも頼りなくて良いはずがない。
 天狼の髪がゆらゆらと揺れていた。馬の尾にも似た形に結い上げた長髪は揺れるたび艶々と光が波打った。彼は共に狩りに出た仲間とけらけら笑っていたが、別の仲間に呼ばれて振り返った。また目が合う前に十六夜がふいと逸らし、まるで眩しい光を受けていたかのように眉根を寄せていたことに気付く。溜息が出た。
 どうして天狼なのだろう、とはしばしば思う。遠くからも目敏く気付いて手を振ったり、或いは小首を傾げて見つめ返したり、時には嬉しそうに駆け寄ってきたり、といった行動は天狼特有のものではなく、まして天狼は十六夜だけにそうしてみせるのでも勿論ない。理解は問題なく出来ている。しかし何でもないような挙動の一々にさえ、為手が天狼であればそれだけで胸の奥に淡い疼痛のような重みを覚えた。他の誰でもなく天狼だけが脳裏で異様に大きな割合を占めてゆくのを止められず、怯えてさえいた。それだけ何かしら特殊な存在であることは認めざるを得ない。理由は空白のままにしておく。
 しかしそれも追い詰められた末の悪足掻きに過ぎない。これだけ自覚症状があれば嫌でも分かる。ただ、自ら認めてしまうと本当に逃げ場を失うことになるとも分かっていて、押し寄せる光の束に背を向け、小さな自分の影に安堵する時間が彼にはまだ必要だった。

 「意外に素直じゃないんだな」とヘクトルは側頭にぶら下がる金と紅の髪飾りを閃かせて、十六夜に言ったものだった。「正直な割に素直じゃない。君に限らず、人間にはそういう種類というか、思考のベクトルとか行動パターンの奴が多いようには思うが」
 雷光と炎熱を混ぜ合わせて人の形に押し込んだらこうなるのかもしれない、と思わず考えてしまうような鮮烈さを孕んだ、ある種の化身じみた男だった。響くように、燃え立つような生気を惜しげもなく発していた。自在にうねり、拡がり、集束する彼の熱を感じ、気持ちが昂ってきらきらと目を輝かす彼の澄明な声音に共鳴して、十六夜の胸は心地よく震えた。
 只でさえ細い目を更に細めずにいられなかったほどヘクトルは目映かった。圧倒されるまでに自信と誇負に満ち満ちた彼が羨ましかった。その輝きに惹かれ、少しでも近付きたいと想っていたことを認める。出来ることなら同じものになって、同じ目で同じ景色を見、同じ耳で同じ音を聞いてみたかった。そんな夢を見るのと同時に、十六夜は諦めてもいた。見上げるのが当然になってしまったことにすぐには気付かなかったほど、彼は遠くにいたのだ。遠いなら遠いなりに眺めているのも良いと身を引いてしまうほどに。彼は、その存在そのものが自分などは到底及ばないと相手の無意識に刻みつける豪奢な黄金の剣だった。
 少なくとも、涙が出そうになるほど近くにはいなかった。これが決定的に違うということを十六夜は理解していた。
 胸中に潜む何者かが、渦巻く胡乱な何かの代弁か十六夜自身の願望かの見極めがつかないながらも断言していた。天狼とは、ヘクトルを眺めて夢想したように同じものになるのではいけない――二人は二人の異なる生き物でなければ、違った景色を見、違った音を聞き、違った言葉を交わし、手を伸ばして互いの体に触れ合うことが出来なければ、その指先の熱も余さず感じることが出来なければ、たとえ重なるほど傍に寄り添っていられたとしてもまるで意味がない、と。そして、なまじあと一歩で叶いそうな距離を保っているがために、今、十六夜の中に芽ぐむ何かは簡単に諦めてはくれない。
 いっそ気付かれてしまった方が楽になれそうだとは、感情も胡乱なら誘惑の手触りも胡乱だった。そもそもいい加減に気付かれていてもおかしくない。天狼は見て見ぬふりが出来るほど器用だとは思えないが、十六夜自身さえ見すぎていると自覚があるほど見つめている理由を未だに察していないとしたら、それはそれで鈍感にも程がある。しかしその都合の良い鈍感さも彼に必要なものだ。
 いつまでなら待ってくれるかな、と呟いて歩き出す十六夜は、踏み出した足の重さを自覚した。

 

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てんいざの日2013

​2013/10/16

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