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​#彼女×彼女×彼女 #春臣×司

 春臣は、あ、と何かに気付いたような声を上げた。普段よりも目を丸く、口を間抜けに開いた。何事かと顔を上げた本能寺を、彼は優しい声音で呼んだ。
「司」
「……えっ」
 ゾクッと本能寺の背筋が震えた。決して嫌な震えではなかったが、嫌な予感には似ていた。欲情して逸る体(主に下半身)に頭の方がついていかないときに走る動揺に途轍もなく近い。休止状態から目覚め、スイッチが入った瞬間のエンジンが起こす身震いのような。
「えぁっ……あ、あれー……?」
 頬が熱い。もう目を合わせられない。
 春臣がその名前を呼んだのは初めてだった。今まで本能寺本能寺と散々罵ったり貶したり叱ったりしたことはあるが、司と下の名前で呼んだのは確かにこれが初めてだった。しかし、たかが名前を呼ばれたくらいのことでこんなにも取り乱す理由が分からない。春臣の口元が今では少し意地悪く緩んでいるように見えるのだが、その理由もさっぱりだ。
「司で合ってるだろ?」
「合ってるけど、そっちで呼ぶなよぉ」
「なんで」
「だって……」
 本能寺は縮こまり、訝しげに覗きこんでくる春臣から目を背ける。着実に追い詰められていると知りながら状況を打開できそうな策もなく、そっと肩を押されて呆気なくベッドに転がった。慌てる本能寺に容易く覆いかぶさった春臣の目は面白がっているときの光り方をしていた。
「顔、真っ赤」
「どっ、どうしたんだよ春臣……ちょっとこれ、近すぎ……?」
「そうやって大人しくしてると、すっげー可愛いんだけど」
 本能寺は声にならない悲鳴を上げた。
 訳がわからない。体中が真っ赤になっているんじゃないかと思うほど熱い。春臣の涼しげな造形の目に見つめられて、春臣の節ばった指に髪の一房を弄ばれて、春臣の落ち着いた声に余計に動揺して、目を回しそうだ。指一本動かすのも躊躇うほど緊張しているのに、身悶えしそうなほど体の内側がザワザワする。
「は、はる、おみ」
 呼びかけた声が震えていたからか、春臣はクスリと笑った。
「何? 可愛い顔して」
「かっ、か、かわいいって言うなバカヤロー! いい加減に……」
「離してほしかったら自力で逃げれば」
 どうせ無理だろうけど、と言葉の裏に滲ませた挑発にカッとなり、本能寺は藻掻いた。しかし素早く押さえ込まれて肘から先と首を少し動かすのがやっとだった。都会のもやしっ子には負けないと言い切る島育ちの運動神経と腕力を舐めてはいけない。焦る一方の本能寺に、春臣は更に距離を詰めた。
「おまえってほんと、可愛いな」
「ひゃぅ」
 声が裏返った。比喩でもなんでもなく腰に響いた。まだどこか面白がっているようで、少し呆れて、見たこともないほど優しげな眼差しに理性が甘く痺れてしまう。彼の言った通り、逃げようにも体が思い通りに動かない。心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打って、最早まともに呼吸も出来ない。
 春臣は悩ましげな溜息など吐いて、本能寺の顎に指をかけた。
「試しにキスでもしてみるか」
「嘘だろ……?」
「本気」
 事実、真剣な顔になって目を伏せ、少しずつ近付いてくる。端正な顔と薄い色の唇が着々と近付いてくる。とても『試しに』などという軽率な雰囲気ではない。数日前の事故を勝手に思い出し、そのときの感触だけを何度も何度も再生しながら頭の中がだんだん白くなっていく。
「つかさ……」
 一層甘美な囁きに本能寺は気が遠くなりかけながら、きつく目を閉じた。これも夢かもしれない、と何度も疑うのに、体のあちこちで感じる確かな感触が何度でも否定する。冗談なら早く終われと念じながら、春臣のシャツをぎゅうっと掴んだ。早くバカみたいに笑って、からかっただけだって言え。キモいとかキショいとか何本気にしてんだとか、そういう台詞でもいいから。これ以上は本当にダメだと思う。本当に。ダメだ、これ。
 春臣が頬に触れた。そっと撫でる指の動きに背筋がゾクゾクしてしまう。もう泣きそうだ。
「……可愛い、つかさ」
 そのまま息を止めた。冗談でも本気でも結局現実なら、どうにでもしてくれ。

 

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本能寺を司と呼ぶことにまだちょっと違和感がある

​2014/06/16

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