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ラケナリアが待っている

​#弱虫ペダル #真波→東堂

 五月最後の日曜日は歯がゆさと疲労からくる微熱に呑まれて意識を失い、目覚めた薄曇りの月曜日は疼くような頭痛と空咳で始まった。東堂は冷静に体の不調を把握し、自己管理の甘さを呪った。情けない話だ。ライバルとの再戦を誓った矢先に風邪を引くとは。
 異様に重く、ぐらぐらと地平の定まらない頭を右手でどうにか支えながら、同級生に電話をかけてあれこれと伝言を頼み、風邪薬を喉に流し込んで横になった。眠りに落ちる寸前まで、空腹のまま薬を飲んだことを若干後悔しながら再び体を起こせる気力もなく、瞼を閉じても緩やかに回転する視界で、これぞまさしくスリーピングビューティー、とくだらないことをぼんやり考えていた。
 そのまま夕方まで目が覚めなかった。薬が効いたのか、体のだるさはほとんど感じなくなり、起き上がって体を動かしてみても眩暈がするようなことはなかった。食欲はまだ失せていたが、レース用に買っておいた栄養ゼリーを胃に収め、水を飲んだ。このまま大人しくしていれば日が暮れる頃には治っているだろう、と思った矢先、思い出したように咳が出る。ただ黙ってじっとしているのは東堂の苦手分野の一つだった。息が詰まる。それが心許なさを誤魔化す言い訳であることも含めて、性に合わない。
 鼻先にかかる前髪を掻き上げて、枕元に放ったままの携帯電話から目を逸らした。普段なら何かと理由をつけて電話をかけているところだが、まさかこの掠れ声で「オレは風邪を引いたが、そっちは元気か」などと聞くわけにもいかない。それはあまりにも格好がつかない。
 どん、と何かがぶつかる鈍い音にはっとした直後、部屋のドアの向こう側から声がした。
「助けてくださーい」
 助けてと言う割にのんきな声は真波山岳に間違いない。面会謝絶の札でも提げておけば良かったかと東堂の思考は手の平を返したように冷めていった。
「あれ、おかしいなぁ……東堂さーん、いるの分かってますよー? 開けてくださいよー。オレ今、両手ふさがってて」
 してもいない借金を取り立てに来たような台詞に呆れる。寝てるのかなあ、とぼやくのが続けて聞こえてくる。東堂はドアを睨んで考えた。真波のことだ。来てしまった以上、変になついたネコのようにドアの前で待ち続けるだろう。一度こうと決めたことは譲らない頑固な奴なのだ。一ヶ月少しの短い付き合いでもう何度実感したことか。仕方ない、と独りごち、まだ少し痛む頭を支えてドアを開けてやった。
 真波は眉尻を下げて笑った。
「あ、良かった。起きてたぁ」
 肘でノックしようとしたら失敗してドアにぶつかった、と真波は言い訳するように説明しながら部屋へ入り、両手いっぱいに抱えた荷物を机に置いた。
「ここに来るまでに、いろんな人から預かったんですよ。東堂さんへのお見舞い。お菓子とか、今日の授業のノートとか、出たばっかりの雑誌とか。お花はファンの皆さんからだそうです」
 東堂は真波の背中を眺めながら聞いていて、花があるなら生けなければいけない、と考えてから鋏も花瓶もないことを思い出し、どうするべきか悩んだ。真波はコンビニのロゴが入ったビニール袋の中身をがさがさと探っていた。それから唐突に振り向き、目を丸くした。
「わ、顔赤い。熱あるんですか」
 東堂は返事をしようとして咳き込んだ。偶然噎せただけだったのだが真波の対応は素早く、あっという間に東堂はベッドへ追いやられ、水を飲まされ、薬は飲んだからと断ると代わりに真っ赤な半額シールが目立つプラカップのカットフルーツ盛り合わせを押し付けられた。強引さに呆気にとられている内にされるがままになってしまったのだ。真波はベッドの傍に椅子を引っ張ってきて座り、別のビニール袋から発見した冷却シートを東堂の額に有無を言わせず貼り付けた。
「あはは、なんか可愛い」
 思わず眉間を寄せると、皮膚に引っ張られてシートの端がぺろんと剥がれた。溜息を吐いて真顔に戻り、シートを貼り直す間、真波は小首を傾げてそれを見ていた。
「そんなに静かだと東堂さんじゃないみたいですね」
「……もう帰っていいぞ」
「えー」
 真波は笑いながら、更に別の袋を手繰り寄せて漁り出した。
「やっと喋ってくれたと思ったらそれですか。ひどいなあ」
「風邪がうつってしまうだろう」
「でも東堂さん、誰も部屋に近付くなって言ったんでしょう? うつしたら悪いからって。そんな風に言われちゃったら本当に誰も近付けないんですよ。みんな心配してるのに。だからオレ、あんなにたくさん預かっちゃったんです。東堂さんトコお見舞いに行くって言ったら、ついでに持ってってくれって頼まれて」
「待て、なぜおまえに預ける?」
「さあ、よく分かんないですけど……オレなら少なくとも門前払いにはならないからって、先輩は言ってたかなぁ。なんかね、オレは東堂さんに気に入られてるらしいんですよ」
 東堂は虚を衝かれた。誰にも一言もそんなことを言った覚えはない。
「確かに、何かと構ってくれてますよね。オレもそういうの都合よく解釈しちゃうの得意みたいなんで、っていうのは委員長が言ってたんですけど」
 東堂はまた顔を顰めたせいで剥がれかけたシートを貼り直したが、否定はしなかった。真波をやたら気にかけていると数日前にも指摘されたばかりで、警戒しているという意味においてはそれは事実だったからだ。
「周りからそういう風に思われてるってことは、オレたち仲良さそうに見えてるってことですよね。ねえ東堂さん、オレのこと好きですか?」
「ときにおまえは突拍子もない事を言い出すな」
「なんだ、つれないなあ」
 めぼしい物は見つからなかったのか真波は袋を机に戻した。そして東堂がカットフルーツに手を付けないと見るや、横から手を伸ばしてつまんだ。ああこれ結構おいしいですよ、と無邪気なコメントに悪びれる様子は全くない。どうやら居座って看病するつもりらしかった。
「早く出て行けというのに」
「大丈夫ですよ。もうちょっとここにいます」
「おまえのためじゃない。本当にうつしたら後でオレが自責の念に駆られるから言っているのだ」
「だったらなおさらイヤです。病人一人にして、もし悪化でもしたら……オレだって心配してるんですよ。東堂さんて普段から体調管理きっちりしてるし、他の誰かが調子悪そうだとすぐにあれこれアドバイスするくせに、いざ自分が風邪引いたら寝てれば治るって思ってそうだから」
 東堂は口ごもった。図星だ。真波はそれを見てくすくすと笑った。
「それならオレにうつしてでも早く治ってくれた方がいいです」
 一瞬でも正論だと思いかけた東堂は慌てて頭の中で否定した。何がいいと言うのだ、インターハイの出場選手を決める学内トーナメントを控えているというのに。しかし真波は普段通りの脳天気な調子で、それに、と言葉を継いでいた。
「オレ、今の東堂さんの気持ち、結構分かるつもりです。オレも小さい頃は良く熱出してたんで。ただ寝てるだけってのも退屈でしょうがないんですよね。だから話し相手がいるだけでも違うかなって」
「……心優しい後輩を持って嬉しくは思うぞ」
 言葉と裏腹に目で不服を訴える東堂に、オレのためでもあるんです、と真波は言った。
「部活に行ったら、今日は東堂さんが風邪で休みだって聞いて、びっくりしました。東堂さんも風邪引くことあるんだ、って。2年の先輩たちもオロオロしてましたよ。あの山神東堂がレース後に風邪引いてダウンなんて、芦ノ湖にクジラが出るレベルの異常事態だーって」
 堰き止め湖の芦ノ湖にクジラが出るわけがない。美形と天才の二点において評価されて然るべきと自負している東堂をしても、自分は一体何だと思われているのかと疑問を抱かずにいられない比喩だった。
「まあ、そんなわけでですね。今日は東堂さんに会えないのかーって思ったら、もう無性に会いたくなっちゃって」
 えへへ、と真波はわざとらしい声を出して笑ったが、その笑顔に作為的なものは一つも感じられなかった。
「オレ、東堂さんと走るの好きなんです。楽しいんですもん。勝負して追っかけるのも、追っかけられるのも楽しいけど、やっぱり一緒に、できれば並んで走るのが一番好き。初めて一緒に走ったときから、実はすっごいテンション上がってて。あなたと一緒だったら、どこまでも走れそうな気がしてくるんです。なんでですかね?」
 その問いに答えるのは、東堂にはほとんど不可能に思えた。ただ、照れた眦を僅かに染めている真波の頭に手を伸ばして撫でてやりたいような、浮ついた気持ちになった。熱が下がりきっていないせいで感動しやすくなっているのだと思った。
「だから、風邪が治ったら、どっか出かけましょう。自転車で、どっか遠くまで」
「二人でか。どこまで行く気だ」
「行けるとこまでですよ」
 何故そんなにわかりきったことを聞くのかと言外に言い切って真波は身を乗り出し、目を輝かせた。
「ねっ、東堂さん。いいでしょ? オレと行けるとこまで行きましょうよ」
 きらきらを飛び越して最早ぎらぎらした瞳に気圧されて頷きながら、東堂の脳裏に浮かんだのは、飄々とした好敵手にして親友のニヤリと笑う顔だった。もしかすると自分が闘志を剥き出しにして迫るとき、彼もこんな気持ちでいるんじゃないか、と。どうしてそこまで、と言いたくなる一方で、こいつとなら、と理性で説明できない何かが沸き立って体を動かし、頷かせるのだ。そして同時に、驚くほど胸が高鳴った。
「約束ですよ」
 真波は小指を差し出して待っていた。約束したいです、と重ねて言った。因縁の勝負の約束とはまた違った、どこかくすぐったいような緊張感があった。小指同士をぎこちなく絡めて約束を交わす。嬉しそうに表情を崩した真波につられて東堂も微笑んだ。

 

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東堂さん風邪を引くの巻

​2014/06/28

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