フロムの言うことには
#零の軌跡 #ロイド×ヨナ #23*18軸
彼を好きかという問いには間髪入れずノーと答えられるのに、では嫌いかと問われるとイエスとは言えないので、結局好きなんじゃないかと突きつけられて口ごもり、渋々頷いてしまうことが腹立たしいくらいに、彼を好きだと言う他なかった。
これが抱かれれば甘い声で泣きすがる。全く不思議でならないのだが、少なくとも体を重ねて揺り動かされ追いつめられたあの一瞬だけは心身ともに彼を受け入れざるを得ないわけで、このやむを得ない屈服によって衰えるどころか勢いを増し、収縮し、膨張してすべてを飲み込む欲望の最中で、あらゆる雑音が消えるあの一瞬を逃さない彼の声に名前を呼ばれる、たったそれだけのことがあれほど気持ち良いとは。知る由もなかった。知らずともあの暴力を彼に許してしまえたあの日。
暴力。それ以外に表現しようのない一連の行為──過大な快楽を得られこそすれ、あれが愛の営みなんて甘ったるい味のついたものと同じ単語で表せるとは到底思えない──の異様な熱気と苦痛を、朝になれば溜息一つでまあいいかと許してしまえるのだから、やはり彼を好きだと言う他ないのだろう。そうでなければ許せるわけがないと確かに思ってしまったのだ。
気が付いたときの敗北感といったらない。
よりによってこいつかよ、と天を仰がずにいられなかった。正義感が強いくせに根本があまりにもお人よしで、草食系の顔をしながら甘い言葉の罠を無自覚にまき散らす超危険人物にまさか本当に落ちるとは思わなかった。あれほど警戒したのに注意が足りなかったのか、彼がそれより上手だったのか、おそらくは、何度も罠を踏んでいたのにその都度気付かないふりをしていて、とうとう片足が抜けなくなったときには既に満身創痍だっただけなのだと思う。
小魚のフライの尻尾を摘んで頭からかじった。正面の席に掛けているはずの青年は今はいない。急ぎの用件とやらで掛かってきた通信のために店の外まで行っただろう。確かに騒がしいから仕方がない。
今更数分くらい、どうということもないのだが、彼がこの街にいないというだけで肌寒く、寝つきの悪くなった夜がいくつあったか言ってやりたい。彼が手の届くところにいないというだけで迂闊に自慰もできなかった夜がいくつあったか。言ってやりたい、きっかり三十分の三十だと。
言ったとしよう。だらしないくらいでろでろにとろけた笑顔を想像した。緩みきった口元から甘ったるい声で彼は言う、「素直に言えばいいのに。寂しかった、って」。それから頭を撫でる。そうするのが好きらしい、いつもそうやって始めようとする。観念して目を瞑るとそれを合図にキスをするだろう。軽く触れるだけで唇がぴりぴり痺れるような感覚。吐息を混ぜ合わせ、彼は一気に期待感を高めて要求する。理性的で弁えた口ではなく無遠慮に良くしゃべる目が鮮やかに閃いて盛んに口説きかけてくる。その情熱を少しでも別の何かに向けたらどうかと思うかたわら、一応好きな人にこれほど求められるのはもしかしたら世間一般で言うところの幸せとかいう状態なのかと考える。自信はない、閃きや直感に近い半ば反射的な思考だが厄介なことにこれがよく当たる。抱きしめるのはそれからだ。固い、と言っても引き締まった筋肉の独特な弾力に包まれた体躯に精一杯しがみつく。足元が波打つように揺れだして立っているのも難しくなる。その腕に身を委ねて後は為されるがまま、時折名前を呼ぶ彼の声に涙を流して満足する。
唇を引き結んだまま唸った。辺りが騒がしいせいで、彼が戻ってきたことに、横を通られるまで気がつかなかった。
「ごめん、お待たせ」
「おかえり」
「ただいま」
彼は椅子を引いて一瞬動きを止めた。何かと視線を返したが彼は何事もなかったように座ったので、そのまま尻尾を口に放り込んだ。
「戻んなくていいのかよ」
「ああ、大丈夫。任せてきた」
彼は椅子に深く腰掛け、申し訳なさそうに視線を寄越した。
「ごめんな、バタバタしてて……」
「別に。今に始まったことじゃないし、だいたい見当もついてる」
「さすが」
自嘲気味に彼は肩をすくめた。その目の前で小魚のフライをもう一つ取り、最後の一つを皿ごと押しやった。
「情けない顔しやがって」
彼はふっと微笑んだ。耳触りのいい優しげなことは何一つ言わないにも関わらず、それだけで幾らか救われたような顔をして肩の力を抜いた。眉尻を下げ、目元を照れたように赤くするその微笑は好きだ。
キーボードから手を離して伸びをしてみた。背中と肩がごりごりと鳴った。不気味な音に眉をひそめて首を回すと、こちらはめりめりと何かを無理に引き剥がすような音がした。
目を眇め、テーブルの端にしがみついているエニグマを拾った。時刻を確かめる気にはならなかったが、深夜あるいは早朝である。まだ寝ている時間だろうと予想しながら発信ボタンを押した。途端に心臓がどくどく鳴り始めた。無意識に呼び出し音を数え、待った。そりゃ寝ているんだから出ないだろうと自分に言い聞かせ、何度も切ろうとしたが、指が端末の側面に貼り付いて動かない。八コール目で繋がった。
「はい、こちらバニングス」
普段より幾分ぼやけた声だった。目を閉じてゆっくりと息を吐き出した。繋がった回線の向こうで、彼が首を傾げるのが分かった。この間で緊急の用件ではないことを理解したらしく、のんびりした空気のまま、続けて言った。
「今日は随分早いんだな。徹夜明け?」
「御名答。そっちは寝てたんじゃないのかよ。本当に出ると思わなかった」
「ああ……うん、寝てたよ。ごめん、すぐ出られなくて」
ヨナは黙って首を横に振った。相手に見えないことは承知しているが、先ほど自分がそうだったように、彼にも分かるような気がした。
「どうしたんだ」
実際、彼は微笑んで尋ねた。柔らかな息遣いがかすかに聞こえたので分かったのだが、それをお世辞にも高音質とは言えないノイズ混じりの音声通信で判別した自分の鋭さが気持ち悪い。
「何かあったのか?」
「なんでもない」
「……そっか」
微笑は崩れていない。ヨナは頷き、俯いた。彼の勘を試すわけではないが、どうしても顔面に奇妙な力が入って歪んでしまうことには気がつかないでほしいと思った。
「なんでもないんだけどさ……」
「うん」
「……適当に話してくれる」
「適当に、って言われても……何の話がいい?」
「任せる」
彼は困惑して唸った。すると向こう側で、にゃあ、と猫が鳴いた。
「猫……?」
「ああ、コッペだ。ここのビルに住みついてる黒い猫」
「覚えてる。そこにいんの」
「いるよ。最近寒くなってきたからかな、夜中にベッドに潜り込んでくるんだ」
「ふうん……」
甘えるような猫の鳴き声を聞かされるのは、あまり気持ちの良いものではなかった。いつもそうだ、電子の世界と違って現実に第三者の存在を完璧に排除することは不可能である。
彼は言いづらそうに口を開いた。
「……なんだか怖い顔してないか」
「なんで」
「雰囲気が、なんとなく」
「機嫌悪そう?」
「うん……」
「……だって、ずるいじゃん」
「え?」
「猫」
「……そんなに好きだっけ、猫」
そんなことじゃないんだろうけど、と訝っているのが明白だった。何も答えず、首を横に振る。
「ボクとは寝なかったのに、猫とは寝たんだろ」
彼がおもむろに俯くのが分かった。頭を掻く音がざらついたノイズになって聞こえた。
「分かってて言ってるとは思うけど、そういう意味じゃ」
「そりゃ重々承知の上だ」
「……ごめん」
「聞きたくない」
はねつけた理由がよく分からない。謝れば済むとでも思ってるのか、というのは後付けだ。謝罪したのは彼が非を認めたからで、すなわちヨナの欲求が満たされなかったことも認められてしまったのだ。自分から仄めかすようなことを言っておいて、いざこうなると居心地が悪くて仕方ない。
「アンタはいつもずるい」
言葉以外の何かがぽろっと一緒にこぼれ落ちた気がした。目元を手で覆って長く息を吐いた。どうして彼と話していると女々しいことばかり言わされるのか、全く意味不明だ。
「忘れろ。どうせ寝ぼけてんだ、何言ってんのか自分でも全然わかんない」
彼は何か言いかけていたようだったが、構わず通信を切断した。
窓の明るみから察するにおそらく早朝だった。まだ新聞も来ていない、少なくとも五時より前である。
彼は同日の昼過ぎに一度通信をかけてきた。その着信音に休日の優雅な惰眠をぶった切られた上、寝不足から寝過ぎたせいで頭痛に襲われたヨナは不機嫌で、それでも一応話を聞いてみると、彼はどうやらヨナに会いたくて仕方がないようだった。そのくせ、今日は早く切り上げて部屋に行くからと言うのがどこか言い訳らしくも聞こえるので、意固地になって、来なくていいなどと言ってしまうのだった。
「忙しいんだろ。無理しなくていいって。暇になったら相手してやるから」
「ヨナ、そういう……」
「うるさいな、分かってるよ。どうせ飽きたんだろ……そりゃ本当に一回も連絡してこないんだもんな」
めちゃくちゃなことを言っている、と自覚はあった。彼に連絡するなと言ったのはヨナ自身だったし、彼が一ヶ月間の長期出張を終えてクロスベルに帰ってくる日まで絶対に通信もメールもなしだと言いつけた。間違いなく覚えている。そして今、彼がそれを言い訳にしない代わりに、悲しく傷ついた目をすることも知っていた。
でも、と頭の中で呟く。これでも不安でたまらないことを、彼はきっと夢にも思わないのだ。嫌みの一つや二つ追加してやりたくもなる。
「は、共和国にいい女でもいたか」
「ヨナ」
「だから昨夜は引き止めなかったんだな」
「それは違う、誤解だよ。俺だってあのまま帰したくなかった」
「じゃあなんで、そのときにそう言わないわけ」
どうしても拗ねた声色にしかならなかったが、今朝方の通信を思い出して開き直った。既に掴まれているものを慌てて取り繕う理由がない。
「そういうことは極力考えないようにしてたから」
かすれた声で言った彼が溜息を吐くのが聞こえた。
「だって、一ヶ月だぞ。長すぎたよ。途中で連絡してもしなくても怒られると思ってたけど、それ以上に、不安で……実際に君に会うまでは、もう俺のことなんかどうでもよくなっちゃったかなって、不安だったんだ。でも……君は昨夜、すごく嬉しそうにしてた」
「はあ、そんなわけ……」
「言うと思ったよ、でも俺にはそう見えたんだ。だから、そんなの見せられたら余計に嬉しくなるじゃないか。もしかしたら君も、久しぶりに会えて嬉しいとか思ってくれたのかなって、そう思うだろ、こっちとしては!」
彼は稀にこういう子供っぽい言い方をする。途中で反論しかけた口を開いたまま、思わず目をパチクリさせてしまった。
「ボクが、アンタに会えて嬉しかったって?」
「うん、いや、あくまで俺の主観だから、自惚れてるだけならそう言ってくれていい。でも、自惚れでもそう思ったら、耐えられなくなりそうだった」
「何が」
途端に彼は口ごもった。もにょもにょとくっつき潰れた言葉で時間を稼いでから、歯切れ悪くこう言った。
「期待、した」
「何を」
「……また触れてもいいんじゃないかって」
「だからなんなの、ハッキリ言えよ」
ここまで来れば察するのも容易いが、まだそこまでは機嫌を直せていないようである。踏ん反り返ってほくそ笑む。彼の逡巡が手に取るように分かった。
「結局どういうこと?」
「とにかく、今夜はそっちに行く」
「あっそ。ま、いつ来てくれてもいいけど」
「それと、明日も付き合ってもらうから、そのつもりで」
「明日?」
「休みをもらった」
「ワオ。貴重な公休の無駄遣いだな」
「そこは素直に喜んでくれる方が可愛いよ」
「うるせー」
彼は笑い、また後で、と言って通信を切った。
特に意味もなくエニグマを頭上に掲げた。手が滑って落としそうになり、掴み直して額に当てた。バッテリーがじんわりと放つ熱が、いやに目に沁みた。
彼を好きかと自問する。ノーと答える。では嫌いかと問うたらイエスとは答えられない。それじゃあ何だ、結局好きなんじゃないか。頷くしかない。これがもっと容易な手順で認められないのは、単に悔しいからだけではなく自信が持てないせいで、すなわち彼のせいでもあるのだった。
例えば件の暴力が、現状より幾らか荒っぽい手法で試行されたなら、その実験結果をもって何かしらの判断が下せる可能性はある。平時は鳴りを潜めている理不尽な利己性を目の当たりにしてみることができれば。被虐趣味を否定する代わりに認めてもいいだろう。他でもない彼に求められる心地よさは否定できないと。
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フロムの言うことには
成熟した愛は言う、「君が必要だ、愛してるから」と。
2015/05/04