すべてを知らないままに
#彼女×彼女×彼女 #春臣×司 #大学生軸
八時半になった。司は緊張した面持ちで鍵を取り出し、扉を開いて玄関へ踏み込んだ。正式に譲り受けた合鍵だというのに悪いことをしているような気分になる。住人がまだ寝ているとなれば尚更だ。玄関からも見える窓際に置かれた低いベッドで、春臣がこちらに背を向けて布団に包まっているのが見えた。
後ろ手に内鍵をかけて、そっと靴を脱ぎ、鞄を置き、真っ直ぐベッドへ向かった。春臣はすうすう眠っている。
足の方の端に膝をつき、手を伸ばして恐る恐るカーテンを開けた。ランナーが滑る音がいやにうるさく聞こえて、春臣を起こしてしまうんじゃないかとびくびくした。途中で彼が呻いたので危うく飛び上がりそうになり、つい顔の方を窺った。
軽い眩暈がした。
ぼやけた光の中で春臣は眠っていた。眉間を眩しそうに寄せてはいるものの、閉じた滑らかな瞼と緩んだ唇に浮かべた平穏、すらりと長い手足が小さくうずくまり、ごつごつした大きな手が赤ん坊のように丸まっている様子、それらが柔らかい布団に埋もれ、快活な朝日に描き出された陰影が、不均衡に幼くも大人びても見える。
後ずさり、それまでの数秒止まっていた呼吸を慌てて再開した。痛いほど激しい動悸に襲われる。無防備な寝顔の破壊力は女子だけの特権ではないと思い知らされた気分だ。
週三回のドアチャイム連打攻撃に音を上げた春臣から半ば押し付けられるように合鍵をもらったときには思いもよらなかった。地獄の底から湧いて出てきたと言われても疑わないような恐ろしい寝ぼけ眼で、これをやるから二度とチャイムを鳴らすなと低いかすれ声で脅してきた彼が、こんな風に愛らしい姿で眠っていようとは。それがここまで目を惹きつけられる光景だとは。
司は呼吸を整えてにじり寄り、肩を揺すった。
「春臣、朝」
「ううん……」
「起きろー。おーい」
春臣はうっすらと目を開いた。むにゃむにゃと何語か分からない不明瞭な言葉を呟き、吸い込まれるように再び瞼を閉じた。寝返りを打って頭の天辺まで布団を引っ張ると、はみ出した足のつま先が居心地悪そうにもぞもぞしながら潜りこんでいった。
殊更ゆっくりと息を吐き出す司の体に、内側の震えるような不思議な感覚があった。頬が緩んでいた。胸の高鳴りがおさまらないどころか、つられて徐々に体温が上がっている気がした。無意味に窓から空を仰いだり、俯いて顔を手で覆ったりした。何度も深呼吸をしてやっと少し落ち着いた。
意を決して布団を剥いだ。春臣はびくりと身を縮めたが、目は閉じたまま手を鈍く動かして呻いた。
「本能寺……」
「うんうん、春臣の大好きな本能寺司くんですよー、なんちゃって」
春臣は急に不機嫌そうな表情になり、のそりと起き上がった。目を擦りながら、地獄の視線を警戒して身構える司の手を捕まえて引き寄せた。血も凍るかと怯えるほどの鋭さはなく、睡魔を振りきれずにただぼんやりしていた。
「なんだ、本能寺か……」
「おい、なんだとはなんだ」
「朝からうるせえ……」
続けて、またむにゃむにゃと何語か分からない不明瞭な言葉を呟いた。聞き返すが、春臣の首はかくんと落ちた。
「あっ、こら、座ったまま寝るなよ。九時には出ないと一限間に合わねーぞ。ほら、起ーきーろ!」
「やだ……」
「春臣!」
「むり……」
春臣は司の手を離し、自分の右手をぶらぶら揺らして、どうやら睡眠を妨げるものを追い払っているつもりらしかった。司の体の内側の震えが一段と激しくなった。
司はそろりと手を伸ばして春臣の髪に触れた。硬くさらさらした手触りだ。彼は呼吸のほかには微動だにしない。
「春臣」
「うん……」
「起きろってば」
言いながら頬をぺちぺち叩いた。わずかに頷いたように見えたが、目は開かない。
「起きないと、寝顔の写真撮ってみんなに送っちゃうぞ」
「おまえ友達いねーじゃん……」
「いるよ! 失礼な!」
反応はなかった。司は宣言通り写真の一枚くらい撮ってやろうと携帯電話を取り出したが、ふと数秒動きを止めた。
二度瞬きをして一人で頷き、膝をついた。落ち着いた体温と仄かな匂いが間近で感じられた。春臣はまだ目を覚まさない。それならこうしたらどうなるのかな、くらいの好奇心で司からキスをした。息を止めて押し付けた、一秒にも満たない接触。
春臣は薄く目を開け、上唇をぺろりと舐めた。無味乾燥な無表情である。司は弾かれたように立ち上がり、取り返しのつかない失敗を犯したと思って露骨に狼狽した。
「お、お、おはよう!」
「おはよう」
「もう起きたな、起きたよな! よし、それじゃあ早く顔洗って、着替えて、学校……」
春臣が手招きしていた。俯いた額に手をついて支え、深いため息を吐きながら。今度こそ地獄を覚悟して司はこわごわ歩み寄った。春臣はそのまま掌を上に向け、無言で何かを要求した。
「写真なら撮ってないんでケータイは勘弁してください……」
春臣は首を横に振った。戸惑う司の手を取り、手首の内側の薄い皮膚にキスした。驚いて逃げようとする司を強い力で引き留め、ベッドの縁に座らせ、詰め寄った。
司は跳ね上がった鼓動のせいで息を切らしていた。
「なっ、なに、なんで」
「先にしてきたのはそっちだろ」
その言葉に退路を塞がれたようでまた軽い眩暈がした。咄嗟に固く目をつむった。今度は唇にキスをされてびくりと体が強張った。
春臣は丁寧に唇を愛撫した。触れるか触れないか程度の軽いキスを重ねて司が抵抗も逃亡も試みないことを確認すると、まるでされるがままの彼に手ほどきをするように、唇をそっと挟んで吸い、形をなぞり、甘噛みした。
触れられるたびに司の背筋は律儀なほどぞくぞくと震えた。春臣が優しく摩るので余計にぞくぞくした。今更このままやられっぱなしではいけないと思った。胸元に手をついて押し退けようとした。上手く力が入らずに、びくともしなかった。
瞼をほんの少しだけ開いてみると彼は密やかに目を閉じていて、一種神聖な静けさを保ったままキスを続ける。泣きそうな声が司の鼻から抜けていった。
春臣は一瞥し、一旦唇を離す代わりに指を軽く当てて司を黙らせ、囁いた。
「いいから、このまま……」
何がいいのか全く分からなかった。体の内側の震えが止まらない。このまま、って。このままどうすれば解放してくれると言うのだろう。ふわふわと浮き上がりそうな未知の感覚が怖くて春臣の体にしがみついた。
唇が触れ合う。キスの音が間近に聞こえる。司は頭がぼうっとし始めるのを止める術を持たなかった。逃げられない靄に包まれて、薄ぼけた意識の中に春臣が入ってくる。気持ちいい。
色っぽく伏せられた春臣の目がすうっと動いて司を捉えた。春臣は面白そうにくすりと笑い、問うた。
「今、何時?」
理解するのに少し時間を要してから司は我に返って硬直した。緊張と高揚ばかりだった心の大半を瞬く間に羞恥が塗り替えていった。
ここへ来た目的を思い出した。放っておくと寝坊で単位取得を危うくする春臣を叩き起こし、学校へ遅刻しないよう連行するためだ。週三回、彼の時間割の一限が埋まっている曜日の朝に、同じ学生アパートに下宿しているからという理由で、司は彼を起こしに来るのである。それが今日はどうして悠長にキスなんかしているのか、自分が彼にキスしたからなんじゃないか。
「おーい。今何時って聞いてんだけど」
「えっ、えっ、ま、待って、携帯……」
「腕時計してねえの」
「うるせえ、そっちこそ目覚まし時計ないくせに……携帯ないし! ほんとおまえの部屋、謎すぎ……」
手に持っていたはずの携帯電話が何かの拍子に姿を消していた。慌てて探し回る司をよそに、春臣はのっそりベッドから下りてうんと伸びをした。その跡地から司が携帯電話を拾い上げ、ふと振り返ると春臣は早速着替えながら大欠伸をしているところだった。
春臣は上半身裸のまま洗面所方面へ消え、顔を洗ったのか幾分はっきりした顔で戻ってきた。
「見つかった?」
「うん、八時五十分……」
「よし」
もうひとつ大欠伸をしながら、春臣は柔らかそうなブルーのシャツを羽織った。清々しい晴れの色が涼しげな彼の印象に良く似合っていた。見る見るうちに身支度を終えた彼は、司の眼前を颯爽と通り過ぎた。
「じゃ、先に出るから。鍵よろしく」
「……いやいやいや! 置いてくなよ!」
こういうことがあってさ、と何でも打ち明けられるくらい事情通で口のかたい友人に恵まれないことがどれほど不運なことか、事由を自分の頭で処理しきれなくなったときに思い知る。嘘でも不正解でも何でもいいので、とにかく自分の代わりに結論を出してくれる助言者が司には必要だった。
でないと、何がどうしてこうなったのかさっぱり分からない。
眠気を堪え切れない顔で聴講に努める春臣の横顔をちらちら窺う。彼が自分に今朝何をしたなんてことは他の誰も知らないのだと思うとまた体の内側がざわざわし始めた。思い出してしまう。誰も知らない、自分だけが知っている、唇から身体中を優しく解かれていくような、あの感覚。
何もかもが予想外だったとは言え、ろくな抵抗の一つもできなかったことが情けないやら恥ずかしいやら、大いに気まずい心地で司はその日の大半を過ごしたが、たった今睡魔に屈服した春臣はと言うと、司が気にしすぎているだけだと言わんばかりの泰然自若ぶりで、司に接する態度も何もかもが素っ気も情けも容赦もなく、普段と一ミリも変わらないのだった。
それならどうしてあんなことを、と司は思う。確かに先に手を出したのは自分だが、やり返すにしても春臣なら怒って殴りかかる方が自然なくらいで、一切暴力に訴えなかったというだけでも天から飴玉が降るくらい珍しいことだったのだ。しかも仕返しには同じ方法すなわちキスを選び、そのキスがまた、嫌がらせやイタズラの類だったとしてもあまりに甘やかで心地よいものだったので、これはもう天地がひっくり返って尚余りあるほどの椿事と言うべきである。
例えば、到底あり得ないことではあるが、彼が実は本能寺司に恋しているとでも言うのなら、些事は脇に置いてとりあえず飲み込むくらいはできただろう。ところで、苦笑いで否定しながら立てる仮定を仮定と呼んで良いのだろうか。もっと違う呼び名が相応しくなりはしないか。
春臣は自分の頭の重みを支えきれないのかずるずる前に傾き、額が机に当たると止まった。びくりと体を揺らしたのはさすがに目を覚ましたのか、深く呼吸してゆっくり体を起こした。時計を見、黒板を見、さほど時間が経っていないことに気がついたようで、安心したのか落胆したのか傍目に判断がつきかねる溜息を吐いた。
思わず笑った司に、春臣は視線だけを滑らせて寄越し、なんだよ、と声を出さずに言った。答える代わりに首を横に振ってノートにとりかかると、視界の端で春臣はふわりと微笑んだ気がした。当然ペンは止まったし、一瞬のうちに心臓が三倍くらいの大きさに膨れたんじゃないかと思うほどの激しい動悸で呼吸まで止まりかけた。
司は俯いたまま深く呼吸した。隣で目を瞑り、今は首を右に傾け左に傾け解している春臣を直視することはできなかった。すぐさま詰め寄って真意を問い質したい気持ちに駆られながら、彼の冷淡で秀麗な横顔をちらりと窺い見るだけで途端にぐうの音も出なくなるのだった。
春臣は気だるげに頬杖をついていた。ノートを写し終えて、前方をぼんやりと眺めていた。講義時間の終わりの五分間を雑談に使うことにしたらしい初老の教授は、こうした雑談の中に突然試験範囲を追加するので油断ならないと悪名高い人物であるのだが、そんなことは御構いなしというか、全く興味がないとばかりにそこには焦点を合わせていなかった。彼の視線の先にあるのは教授の頭上の白い壁に張り付いた時計で、六十秒毎にガチリと動く無骨な長針を、それがほんの少しでも早く動いて、残り五分弱の講義が少しでも早く終わらないかと淡い期待を抱いて見守っていた。
完全に気を抜いている。隙だらけだ。その気になればキスすることだって何てことない、容易くできてしまうだろう。そう考えた途端に司は頭を抱えた。今までただの一度も春臣にキスしたいだのされたいだの考えたことはなかったのに、今日だけで何度それを望んだか知れない。今朝から分からないことが多すぎる。
「頭、痛いのか」
春臣の声だった。顔を上げてみると、興味はないし心配もしていないが無視するわけにもいかないから一応聞くだけ聞いておく、みたいな顔をした春臣が頬杖をついたまま司を見ていた。
「うん、痛い。色々な意味で」
「どうせバカなんだから諦めろ。あ、今日の飲み会まだ返事してなかった。お前は行くだろ?」
「今の文脈おかしいし、そっちから聞いたんだから形だけでも心配しろよ。行くけど」
「ふうん」
春臣は机の下で携帯電話をいじり始めた。こっそり覗いてみると飲み会の幹事に宛ててメールを打っているようだった。
「お、今日は来る?」
「見るなよ」と春臣が苦笑したので司は大人しく首を引っ込めた。
教授の雑談は平穏無事に終了し、カランコロンと古風なチャイムが鳴った。
気がつくと極彩色で、甲高い声と野太い声が入り混じって手拍子を打ち鳴らしこれでもかと高笑いしているので司は怯んだ。身動きも取れず数回瞬きをした。すると徐々に感覚が戻り、気合の入った品のない花柄ワンピースとボウリングのピンよろしく並んだビール瓶と居酒屋チェーン店の座敷席に溢れる酔っ払い大学生の群れを認識できた。
ぼんやりと熱っぽい。腹の中もポカポカしているので酒が入っているのは間違いないだろう。ジャンケン大会の途中までは覚えている。壁にもたれた体が右に傾いているが、温かい何かに支えられているようだ。
ゆっくりと体勢を真っ直ぐに戻し、何が支えてくれていたのか見て驚いた。春臣である。彼の肩に頭を乗せて眠っていたらしい。
咄嗟に言葉の出ない司を春臣は不思議そうに見た。持っていた黄金色の液体が半分くらい入った小さなグラスをテーブルに置き、無色透明の液体がなみなみと注がれたグラスに持ち替えて司に差し出した。
「水」
「あ、ありがと……あー……ごめん、寝てた」
「見りゃわかる」
司は水を一気に飲み干した。随分と喉が渇いていたようで、冷たい水が腹まで落ちてくると気持ちが良かった。ふうっと息を吐き、ポケットから携帯電話を出して時刻を確認した。夜九時を回っていた。
「何時?」と春臣が問うた。
「九時ちょっと」
春臣は頷きながら、司から空っぽのグラスを取り上げてテーブルに戻し、先程置いた自分のグラスを再び手に取った。
司は座ったまま伸びをした。いつ眠ったのか記憶は定かでないが、頭痛の類はほとんどない。介抱を要するほど大量に飲んだわけではなさそうだ。ただ途中で寝てしまったから、春臣が気を遣って隅の方へ連れてきてくれたのかもしれないと思った。彼は騒がしい場所があまり好きではないので、彼自身が避難する口実にされた可能性も濃厚だが。ほんの数メートル先の中央部は若気の至りとしか言いようのない騒々しさであるのに対し、二人しかいない隅はとても静かに感じた。
春臣は黄金色の液体──ビールに見えるが泡が消えている──を飲んでいる。楽なように足を崩して座り、心地よさそうな酔いが漂う横顔へとグラスを運ぶ仕草がやけに絵になるのが羨ましい。顔が良ければ何をしても恰好良いのは世の不条理だ。
不意に春臣が振り向いたので視線がかち合った。司は思わず目をそらした。かあっと顔が熱くなった。何度目だと自責した。ほとんど無意識のうちに彼に見惚れて、今日だけで何度、浮かんだ淡い夢をため息で吐き出したことか。
何を思ったのか、春臣は俯く司の肩を抱いた。驚いた司をまた不思議そうに純粋な眼で見つめる。
「なんだよ」
「そ、そんな目で見るなよ……」
「どんな目?」
「ちょっ、寄るなって……おまえ結構飲んでるな!」
「いや。全然」
「飲んだやつはみんなそう言うの」
「でも、意識とかハッキリしてるし……」
「酔ってなきゃこんなことしないだろ」
「なんで」
司は口ごもり、恥ずかしそうに縮こまった。相手がそうして何がおかしいと言わんばかりに堂々としていると、本当に彼は何もおかしくなくて、びくびくしている自分が意識過剰なだけなのだとも思えてきて居た堪れない。
すると春臣は何故か悲しそうな顔をした。暴言を吐かれて心底傷ついたとでも言わんばかりの、謂れのない罪悪感を掻き立てる表情だった。何もしていないのに容易くぐらついた司の手を取り、撫で始めた。
「……気持ちいいな」
「え、何? 手?」
「柔らかい……」
それは褒めてるのか、と司がつっかえながら尋ねると、春臣はこっくり頷いた。その手が普段より温かいように思う。
手の甲を存分に撫で回した春臣は、ひっくり返して掌に指を置き、小さな円を描くようになぞった。
司は身動いだ。くすぐっているつもりなのか、動きが緩慢でどうにも焦れったいような気分になる。じわりと腰の裏側から、小さな痺れが余計な何かを連れて下腹付近に溜まっていく。
春臣は掌のあちこちを指圧よろしく押したかと思えば、手首から指の先まで往復して撫でた。マッサージと言えばマッサージなのかもしれないが、嫌な予感が暗雲の如く立ち込めた。このまま続けられたら言い逃れできない状況になりかねない。
「なあ春臣、もういいから離してくれよ」
「気持ちいい」
「……はい」
提案は暗に突っぱねられた。さりげなく手を引いてみたが、春臣の手から抜け出すことはできなかった。
なんなんだよお、と弱々しく吐き出すのがせいぜいだ。酔った春臣がこんなに触りたがるなんて知らなかったし、誰からも聞いていない。そもそも彼は滅多に飲み会には参加しないのだ。今回この場にいるだけでも珍しいのに、日頃邪険に扱ってばかりいる司にべたべた構っていることが不思議でならないのは、この状況を一目見れば誰だって同じことを思うに違いない。
「お前の手、小さいな」
「お前のが大きいんだろ……」
「柔らかい」
「それ、さっきも言ってたぞ」
「大事なことなので二度言いました」
春臣は真面目な顔で頷いてみせた。中央部から一際大きな歓声が上がったのはそのときで、つい意識がそれた司を春臣はさらに強く抱き寄せた。
「わっ、春臣っ」
「俺の手は?」
「はいっ?」
「硬いかな……」
司が一層近くなった春臣の熱にどきどきしているところへ、溜息混じりの声が耳にかかった。背筋がぞくりとした。
「そ、そりゃ硬いよ。胼胝とかいっぱいあるじゃん……」
「地引網のバイトしてた」
「じび……ああ、島でか。うん、それは聞いたことある、多分」
「俺の手、どう?」
「どうって……」
「良い? だめ?」
「い、良いと思います」
「理由もつけて」
「理由? ううん……大きくて、硬くて……って、おい、バカ」
「ふっ、ふ」
「笑ってんじゃねーよ、オヤジかよ。僕にセクハラして楽しいか」
「楽しい」
春臣はけらけら笑いだした。言い返そうとした司は、台詞を飲み込まざるを得なかった。初めて彼にこれほど屈託のない笑顔を向けられている。そう思うと体の内側が震えだして、文句を言うどころではなくなってしまったのだった。
ひとしきり笑って春臣は目の端を擦った。
「はは、なんで俺、お前の手なんか触ってんだ」
「そりゃこっちが聞きたいわ。もういいだろ、今度こそ気が済んだだろ」
司は手を引いた。抜けなかった。春臣が指を絡めて捕まえていた。まだやるのかと思わず眉をひそめて彼を見た。
瞳が悪戯っぽく閃いた。春臣は虹彩の色まで一段と鮮やかに変えて、それを隠すように瞼を伏せた。司の手を口元へ運び、押し当てた。
掌の中程に触れている、熱を持った柔らかいもの──春臣の唇以外に何があるだろう、それは二度、三度、少しずつ場所を変えて触れ、急速に司の心臓を押し上げて息苦しくさせた。
中指の先端に軽やかなキスを落とし、内側を通って下りる唇が掌で熱くぬめった感触に変わった。司は困惑して見つめる。その感触が手首まで下りてきてようやく、春臣の舌であることが視認できた。
「な、何してんの……?」
春臣は答えない。しかし行為に没頭しているわけでもなく、唇の間から覗かせる赤い舌を平然と司の手首の内側に触れたまま、瞼をほんの少し持ち上げて司の方へ視線を向けた。
司の心拍が跳ね上がった。かすかな声が零れた。眼前の事実、肌を舐める春臣の姿がたまらなく卑猥で、そうでなければ至上の蠱惑であった。頭の回転が止まる。自分の身に起きていることを一つ一つ理解するのに精一杯で、何故だのどうしてだのと考える余裕が吹き飛んでしまった。今や彼の全身から放たれる壮絶な色気に飲み込まれて身震いするほかない。
春臣は司の手を引いて更に距離を詰め、一変して熱っぽく潤んだ目で司を見た。
「本能寺……」
司は気圧されるままおずおずと頷いた。春臣の、どんな田舎で育ったらこうなるのかと思うほど綺麗な顔が近づいてくる。またキスをされるのだと思った。今朝のような、或いはもっと違うものかもしれないが、彼が求めるならばきっと自分にとっても悪いものではない。甘受のために目を閉じる。
「ちょ、マジかよ! 本能寺が志木に襲われてんだけど!」
司は飛び上がった。春臣は被さったまま動かない。無遠慮な大声につられて中央部から続々と人が集まってきた。
「マジでえ?」
「おーい志木、それ女子じゃねーぞ! 本能寺だぞ!」
「しっかりして!」
「待って、そのまま。写メとっとこ」
「つーかよりによって本能寺かよ! ちょっとありそうで怖くね?」
「なんであたしじゃないのおー」
「本能寺は? 息してる?」
「こいつらそんな飲んでたっけ?」
「実はコッチ系とか」
「ないない。フツーに飲みすぎだろ。志木、地元に彼女いるし」
「何それ、俺それ聞いてない」
「うるせえ……」
春臣はがっくりと頭を垂れて呻いた。のろのろと司から離れ、気分を紛らわすように頭を掻いた。ぼそりと呟く言葉に司は耳を疑い、え、と声を上げてしまったが、周囲の様子を見るに、彼らには聞こえていないようだった。
舌打ちして面倒くさそうに立ち上がった春臣は、群がった野次馬を回収して中央部に混ざっていった。
「おまえらさあ、もうちょっと空気読めねーのか」
「あー、ごめんごめん。邪魔するつもりはなかったんだけど」
「こいつが空気読めなくてさー」
「おめーらもだろー! 志木マジごめんて、そこデキてるって知らなかったんだって」
「いや冗談だよ。デキてねーよ」
「そっちもするならするで場所選べよなあ。居酒屋ってさあ、どうなの、なあなあ」
「女子的にはアリ?」
「志木的にアリならなんでもいいでしょ」
「やっぱ志木くんが攻め? どこまでいった?」
「どこまでもいってねえ!」
口やかましくからかわれて段々苛立ちを露わにする春臣の、面倒くさそうな否定の声が聞こえる。ぽつんと残された司の鼓動はまだ早鐘を打っている。
店員がラストオーダーの時間を知らせた。親切な女子が一人、隅に座ったままの司にオーダーを聞きに来たが、半ば放心しているのを見ると、水でいいよねと勝手に決め、すぐに持ってきた。しかし、気遣いの言葉も、受け渡しの際にかすめた指先も、グラスの冷たさも、意味ありげな目配せも、司の意識に入り込むことはできなかった。
司は春臣が離れ際にぼやいた言葉の意味を考えるのに忙しかった。「いいところだったのに」というのは、あの場面で、あの口調で、あの低い声で言われたのだから、そういう意味以外にどういう意味があったというのだろう。無闇にひねくれた解釈を試みたが、他の何にも思い当たらない。つまりそういうことだったのだ。
落ち着きかけていた鼓動がまた速くなった。
結局、騒動からようやく解放された春臣が呆れながら手を引いてくれるまで、司はそこから一歩も動くことができなかった。
翌朝、司は警戒レベルを最高値に引き上げて眠る春臣に挑んだ。彼と顔を合わせてまた妙なことになったら今度こそどうなるか分からない。しかし何故か、行かないという選択肢を選ぶには至らなかった。
八時半きっかりに玄関の扉を開き、持てる最大の威厳を持って踏み込み、思い切りカーテンを開けた。ついでに布団も剥ぎ取った。うずくまる春臣に堂々と宣言した。
「春臣、朝!」
春臣は不機嫌そうに顔を歪め、司の手を掴んだ。司は驚きつつも、今日はその手には乗らないぞと独りごちて手を引いた。抜けなかった。寝ぼけているとは思えない力強さでがっちり捕獲されてしまっている。
「逃がすかよ……」
「えっ、うそ、ちょっと待って」
「ツチノコ……」
「……ツチノコ?」
司の手を掴んだまま起き上がった春臣は、おもむろに目を擦った。
「なんだ、本能寺か……」
「なんだじゃねーよ! びっくりさせるなよ!」
「ツチノコだと思ったのに……」
「そのツチノコってなんだよ、どっから出てきたんだツチノコ!」
「おまえツチノコ知らねーの」
「いや知ってるけど! そっちじゃなくて!」
「っとに朝からうるせーな……」
春臣は手を離し、のそりとベッドから下りて身支度を始めた。今朝は大人しいなと司が思ったのは、そもそも春臣は寝起きが悪いのだ。揺すっても叩いても昨日くらいはごねるのが普通である。そうだ、と気がついた。やはり昨朝は自分が余計なことをしたから何かがおかしくなっただけなのだ。
洗面所から戻ってきた春臣は大欠伸をしながら、司には目もくれず着替えだした。司はベッドに腰を下ろして待った。朝陽を受けて立つ背中が露わになった。特別鍛えている訳ではないのに、引き締まった身体にはシャープな筋肉の凹凸がはっきりと見てとれる。すらっとした肢体は白刃のようでもあり、しなやかさと逞しさの絶妙な兼ね合いに溜息が出そうなほど、言語化し難い色気を放っていた。
その身体に纏えば、さらりとしたグレーのパーカにスタンダードなジーンズという平凡かつ地味な組み合わせでも不思議と様になるからずるい。司は思わず眉間にしわを寄せた。子供じゃないんだからもっと良い服を着ろと助言し続けて早数年になるが、この衣装でこの仕上がりなら司の肥えた目も及第点を出せる。今日も似たような服装の冴えない男子大学生を片っ端から撃沈していくに違いない。
「昨日、絡んで悪かったな」
その声で司は我に返った。春臣は彼に背を向けて鞄の中身を出したり入れたりしていた。
「酔ってないって言ってた気がするけど、多分酔ってた」
「ああ、うん、大丈夫。そうだと思ったし」
「すまん」
「まあ、そこまで気にすんなよ。相手が僕で良かったじゃん。あれはちょっと、さすがに女子だとシャレになんねーからな」
「でも、朝は完全に起きてた」
「……どゆこと?」
春臣の手が言葉を探すように空を掻いた。
「キスしたやつ」
続く言葉はなく、春臣は鞄の口を閉めて踵を返した。
「今何時だっけ」
「えっと、八時三十五分くらい」
台所へ向かいながら春臣は頷いた。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、飲んだ。その唇の感触を思い出したせいで司の頬はじんわりと熱くなっていた。春臣がボトルを戻し、振り返った。ほとんど無意識に目で追っていた司と目が合う。司は咄嗟に顔を背けた。
春臣はまっすぐ歩いてきて、司の目の前で止まった。
「本能寺」
「な、何でしょうか……」
「昨日からすげー見られてる気がするんだけど、気のせいか」
「気のせい、じゃないと思います……」
「……怒ってる?」
司はきょとんとして春臣を見上げた。それはこちらの台詞じゃないのか、と頷きながら首を傾げた。今度は春臣の方が目をそらして俯き、頭を掻いた。
「その……あんな風に、男にキスされるとか、やっぱり嫌だろ」
「……うん?」
「や、そうだよな、それが普通だと思う。俺もたぶん嫌だと思うし……」
「ちょっ、と……待った。昨日の、先にしたの僕なんだけど」
「だな」
春臣は平然と頷いたばかりか、発言の意図がわからないと目で訴えた。司は混乱した。話が違う。春臣にされた方はさておき、司から故意にしたキスがもしも嫌でなかったというなら、今までにふざけて抱きついたり肩を組んだり、果てはそういう冗談を言うだけでも気色悪いと言って殴られていたのは何だったというのだ。
「春臣、ほんとに大丈夫かよ? 熱とか出てない?」
「出てないと思うけど」
「じゃあ、なんで……」
春臣も心底不可解そうに首を傾げ、司の肩と頬に手を添えてキスをした。あまりにも自然にそうしたので司は身構える暇すらなかった。すぐに離れた春臣がやはり不可解そうに首をひねり唸るのを見ながら、一拍遅れて彼が何をしたのか理解した。
「な、なな、な」
春臣は司を見つめていて、司は見つめ返すしかなかった。春臣の、自分でも何故だか分からないことに戸惑いながらも明らかに司を求めて揺らぐ表情が、体の内側で花が咲くような錯覚を起こした。
頭の中と体の奥に、じいんと深く響くような痺れがあった。司もまた春臣を求めてやまない。何度気のせいだと言い聞かせても、最早言い訳の余地はないように思う。
「……嫌か?」
慎重に探るような問いだった。司は首を横に振った。
「なんでかな……」
そう呟いてまた頬に触れてきた春臣の指を震える手で握った。今は、理由はなんだっていい。怖いもの見たさであろうと何であろうと。
春臣は静かに頷いた。
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春臣と本能寺は同じ大学で、秋奈はもうちょっと頭いい大学へ進んだという設定
2015/06/21