山の神様の言うとおり
#弱虫ペダル #真波→東堂 #オリキャラ
何かがおかしくなった気がするのは、山に入って偶然前にいた東堂の後を追い始めてからだった。
数メートル先を走る東堂の背中はカーブに隠れ、直線に入るとまた表れた。
真波がどんなにペースを上げても彼に追いつくことはおろか、並ぶこともできなかった。真波の速度が上がれば彼も同じだけ上げ、下がれば同じだけ下げているかのようだった。異常なまでに正確なスピードコントロールによって、二人の距離を縮められないだけでなく、開くこともまたできないのである。
そして、これが一番の違和感だと思うのだが――初めに一瞥を寄越したきり一言も喋らないのだ、あの東堂尽八が。
向かい風、あるいは横殴りの暴風に東堂の髪が煽られてはためく。
弱々しかった雨は夜のうちに止み、朝から快晴無風のさっぱりした自転車日和だったというのに、山に入った途端に風がうなり始め、時には車体ごと持っていかれそうな突風が吹いた。必死でハンドルにしがみつく真波をよそに、まるでものともしないスリーピングクライムは滑るように駆け上がっていく。
森さえ眠るとはよく言ったもので、息をひそめて佇む路傍の木々が、彼が通り過ぎるのを合図に目を覚ましていくようだった。真波が通る頃にはざわざわと騒いで揺れ、耐えきれずに剥がれ降る葉の雨の中を、二人とも全くの無言で走っていた。
ふと後ろを見遣った東堂の横向きの口元は、微笑んでいるように緩くゆがんで見えた。
真波の背筋が冷たくなった。つい振り返ったが何もなく、走り慣れた練習コースが流れるばかりだった。しかし、これもおかしい。本当に走り慣れた練習コースなら、これだけ走ればとうに頂上へ着いているはずだ。少なくとも真波の体感ではそのはずだった。だが現実、そうではない。まだ走っている。例えばペダルが異様に重いとか、踏んでも踏んでも前に進まないとか、同じところをぐるぐる回っているとか、そういう分かりやすい異常は発生していないのに。
ただ一つ、身体中を一瞬にして駆け抜け浸透した、過ぎた地面がガラガラと崩れて後戻りできなくなっているようなあの感覚は、一体。
真波は首を振って前を向いた。とにかく進んでみよう。止まってしまう勇気もないので結局それ以外に何もないのだ。それでいいと言うように彼が頷いた気がした。
風は耳を塞ぐように轟々吹いていた。
柔らかい壁に頭から突っ込むような抵抗を裂いて走った。鳥肌が立つ。気持ち悪い。登坂の息苦しさや軋みは真波に『生きてる』感覚を与えてくれるはずだった。それが今、どうしたことか死にそうなくらい気持ちよくて――それが吐きそうなくらい気持ち悪い。両手の指先が痺れ――足元がふわふわと浮き上がった。どうやってペダルを踏んでいるのか自信がなくなる。末端から感覚が失われていく。
それは初めて感じる種類の漠然とした恐怖だった。
ようやく頂上へ到着したとき、真波は疲労困憊していて、肩で息をしながらフレームに寄りかかって立っているのもやっとだった。先に着いていた東堂が「ははは!」と笑った。
「この俺について来たか! 褒めてつかわす。ここまで来られたのは貴様が初めてだ」
「はあ、どうも……」
「うん、良いぞ少年。そのとぼけた面構えも実に良い。己の為したことの重大さなど思いもよらん」
彼は東堂尽八の顔と東堂尽八の声と東堂尽八の体を持っていた。しかし耳鳴りがした。彼は東堂尽八ではないと、直感がそう警告する。
真波は自転車をガードレールに立てかけ、がくがく震えそうな足をどうにか真っ直ぐ立てて深く息を吸い、彼に対面した。
彼はどこか世間離れした雰囲気を纏っていた。そこにいるのにそこにはいないような不鮮明さがある。手を伸ばして触れたとして、すり抜けてしまうのではないか、或いは迂闊に触れた自分の手が砂になって崩れてしまうのだろうか。いずれも東堂に対しては感じたことのないものだった。
「あなたは誰ですか」
彼は唇を深い弧に歪めて答えた。
「山神だ」
片眉を吊り上げた挑発的な微笑は足がすくむような高圧を放っていた。これを神々しさというのかもしれない、と真波は思った。眼前の『山神』は、真波の知る山神とも真波自身とも違い、確かに何かを超越した存在に見えたからだ。
真波は唇を湿した。喉がカラカラに渇いている。
「ここ、どこですか」
「有り体に言うなら神の領域だな」
「はい?」
「他でもない俺の縄張りだぞ。そりゃあ神の領域に決まっている。少なくとも貴様のようなウツシオミが立ち入る場所ではない」
彼に賛同するかのようにざわざわと木々が騒いだ。思わず振り返った真波は言葉を失った。
木々は行く手を塞いで生い茂っている。
慌てて辺りを見回した。そんな馬鹿な、と零さずにいられなかった。地面のアスファルトは、自転車を立てかけたガードレールは、いつもスポーツドリンクを買う自動販売機は――跡形もなく消えていた。真波のルックは丁度背後の木に立てかけてあったが、東堂のリドレーの姿もない。
靴の下には自然の土と草木の凹凸を感じられる。風が揺らす葉群のさざめきと長閑な鳥の鳴き声が聞こえる。そこは紛れもなく山の中で、半径五メートルほどの、そこだけくり抜かれたように木が生えていない円の中に二人で立っているのだ。瞬きもしない一瞬のうちに景色が入れ替わっていた――そんなことが可能ならば。
混乱しながら真波は一周し、元通り山神を見た。彼はにやにや笑っていた。
「どうした、不安そうな顔をして」
「オレは死んだんですか」
「馬鹿もの。亡者では意味がないだろ」
「あ、良かった。それなら帰れますよね」
山神は笑みを深めた。紛れもなく真波の純粋な愚かしさを、呆れつつも愛おしんでいるのだった。
「……そうやって笑うの、いじわるですよ」
「ふん、神とは元来意地の悪いものだよ」
真波はふいと顔をそらした。そう拗ねるな、と山神が声を掛けるのを無視して考えた。この際、彼が本当に山の神でここが本当に神の領域なのかどうかは置いておくとして、本当にどこかの山の中ならロードバイクで下るわけにはいかない。まして八キロ近い車体を抱えて下山するのは危険すぎる。つまり、帰れないのと同じことだ。
ちらと目をやると山神はまだにやにやしていた。自分で意地が悪いと言うからには、真波が困る様子を見て楽しむくらいはしているかもしれなかった。
「そう急いで帰ることもなかろう。何より俺に失礼だ」
「でも今日は携帯持ってないから……」
「……ふむ」
山神は腕を組み、体を斜にずらして軽く俯いた。
「そんなに彼奴の元へ帰りたいのか。なあ、少年、見るがよい。俺も同じ顔、同じ声、同じ体で、同じ話し方、同じ振る舞いをするぞ」
「話し方はちょっと違いますけどね」
「む、そうか。では改めよう。全く同じであれば良いと。そうだな?」
「ああ……」
山神の瞳が尋常ならざる熱意に煌めいていた。真波はその瞳に覚えがあった。東堂の感情が昂ったとき、欲求を抑えきれなくなりそうなときに、瞳の蒼黒がぎらりと閃いて声なき声を叫ぶのだ。
「そういうのはちょっと……」
「是非は明確にしなければならん。貴様は彼奴を手に入れる。俺は貴様を手に入れる。これの何がいけない?」
「何でもだめです」
「そうか。では致し方あるまい」
くるりと背を向けた山神の髪がふわっと揺れた。細い体に自信を漲らせて堂々と立つ姿は本当に良く似ている。
「何故だろうな。貴様はこの姿が気に入らない……貴様の好むものをかたどったはずなのだが」
「どういう意味ですか?」
「愛していると言っても過言ではないだろ」
「いっ、愛とか、そんなんじゃ」
思わず頬を赤くした真波に、山神はまるで見ていたかのように振り返り、慈しむような柔らかさをくるめた微笑みを見せた。
「しかし告げよう。私は貴様が愛おしい。貴様のすべてが愛おしい。貴様が何かを愛しく思うその心までも愛おしいよ。だから呼んだ」
「どうして」
「途中で落ちるならそれまで。神とて見誤ることもある。しかしここまで来ただろう。貴様は応えたのだぞ」
「何に?」
「あれは、嬉しかった、そう、賞翫に値するものと確信した。あのときもそうだったな。私の心と呼べるものが貴様に添おうとした。その貴様が誰よりも速く、誰の手にも触れていない無垢の景色を欲するのだから、叶えてやりたくなるのが情というものさ」
何一つとして問いに対する答えではなかったが、後ろを向くよう指示した山神に真波は従った。程なくして背中に固く尖ったものが当たり、首だけ振り向くと山神が木の枝でつついていた。
山神は左右の肩甲骨を不規則にコツコツ叩いた。どんな意図を持ってそうしているのかは全く読み取ることのできない思案顔で、肩甲骨を叩くことに可愛らしいほど集中していた。そうして真波が不意に湧き上がったむずがゆさに身震いした次の瞬間、実体のない羽がゆらりと立ち上がり広がるのが分かった。
「え!?」
「分かっている。無理もない。何も知らずにいたのだろうからな、それが正しいこととは言え……」
真波はまるで金縛りにあったようになり、指をひくつかせることすらも出来なかった。山神はうっとりと羽を眺め、言った。
「これは私のものだった。貴様に分け与えた私の一部だ」
「は――?」
「ああ、誤解のないよう言っておくが、その形を作りだしたのは貴様自身だぞ」
「待ってください、いきなりそんなこと、訳わかんないんですけど」
「その翼で羽ばたくのも風を捉えるのも貴様の力ということだ。これまでの実績は嘘ではないから安心しろ」
山神は言葉と裏腹に鋭い目をしながら、真波の首に枝先をそっと当てた。刃物を突きつけられたかのような寒気が背筋を走った。
「私は貴様を見つけた。その命の激しい輝きを見つけた。そのひ弱な肉体の隅々まで激しく波打つ執念を見つけた。単純が故に強靭なそれを私は愛した」
枝の先がすいとずれて、真波の背中の、二つの羽の間を軽く突いた。羽がすっと消え、真波は押し出されてたたらを踏んだ。
「一体何なんですか。なんでオレ……」
「羽を望むものに羽は与えられん。貴様のそれは結果ではなく過程と手段なのだろう。私も初めてだ。人の欲望がこれほど美しい形を現すとは思わなかった……」
山神は目で真波を射竦めた。その深潭は真波に、足を踏み外して奈落へ落ちる錯覚を起こさせた。少し強い風が葉群を不気味にざわつかせた。
「貴様の欲には果てがない。いずれ人の域を逸するぞ」
真波は何も言い返せなかった。そんなこと言われても、というのが正直な感想であった。そもそもそんな脅しで大人しく萎むような願いなら目にも見える形で顕現するだろうか、とも思った。山神も分かっているのか、目を伏せて「まあ、確かに貴様にはどうしようもなかろうな」と呟いた。
「良い、良い。最後のは忘れてしまえ。そのときが来てからでも遅くない。私が動くのもそのときだ」
「忘れてって。結構衝撃的ですよ」
「では覚えていろ」
山神は静かに背を向け、切り株にすとんと座った。
「もう行って良いぞ。貴様がここにいたいと言うならもちろん歓迎するが」
「いや、帰ります。帰れるんですね」
本当は、彼が一方的に言いつけてきたことを一つ一つ理解できるまで聞きたいことが山程あったが、飲み込んだ。行って良いと言われたこのときを逃したら帰れなくなるかもしれない。
「返してやらねばならんだろう。実は先程から彼奴がうるさくてかなわん。貴様を探しているようでな」
山神は枝を手の中でくるくる回して弄びながらぼやいた。
「折角ここまで連れ出したというのに……しかし名ばかりとはいえ神は神、同じ地に坐するものとしては彼の声をまるきり無視するわけにもいかぬ。厄介よな、神格のかけらも未だ持たぬくせに、一丁前に干渉はできるときた。それも彼奴が意図してそうするものではなかろうが……」
真波がルックに手をかけると、また見ていたようなタイミングで山神はこう言った。
「そいつに跨って踏み出せ。山を下るまで手を離すなよ。ああそれと、俺の領域から出ていくのだから、タダで済むとはゆめ思わぬように」
「……あの、山神さん」
「なんだ?」
「捕まえなくていいんですか? せっかくここまで連れてきたのに」
山神はしばらく黙っていた。余計なことを言ったのだと真波はすぐに後悔したが、今更なかったことにはできなかった。
ゆっくりと振り返った山神は静かに呟いた。
「確かに、そうすれば簡単なのにな。それでは意味がないんだ」
このときほど切なく歪めた笑みを東堂が見せたことはなかった。
翌日は陰鬱な頭痛が真波につきまとった。
山神が言ったのはこのことだろうか。神気にあてられたとか、と考えて苦笑いした。自分で考えながら、違うな、と思った。そんなに無機質的なものではないと思うのだ。この鈍い痛みが彼のもたらしたものとするなら、それはあの瞬間移動のようなもの、金縛りのようなもの、甘言のようなもの、訓告のようなもの、不思議と欠片も疑わずに現実だったと信じられる現実味のない事象たちとその余韻めいた深い鼓動を、そうだ間違いなく現実だったのだぞと言い含めるためにわざとそうしたに決まっている。
「山岳ってば、いつまで寝てるつもりよ。プリントは?」
きんきん響く声は宮原のものだ。放課後。山積みの課題。真波はため息を吐いていた。今はそういうことを考えたくない。
「あっ、全然やってない。全く……ねえ、昨日もいなかったじゃない。どこ行ってたの? 部活じゃなかったんでしょ? 東堂先輩、わざわざ探しに来たよ」
「うん……」
「山岳? 具合悪いの?」
「うん、頭痛い」
宮原は途端に心配顔になっておそるおそる真波の顔を覗いた。メガネのレンズに顔色の悪い真波山岳がうっすら映った。朝より少し悪くなっている。宮原が熱を測ろうとして差し伸べた手をそっと退け、真波はくっくっと笑った。
「なっ、なんで笑うの!?」
「委員長すごい顔してる」
「すごい顔って何よ! こっちは心配してあげてるのにっ」
「大丈夫。死にゃしないよ」
「当たり前じゃない!」
宮原が踵を返したのと殆ど同時だった。真波は首筋がピリッと震えるような緊張を受けて振り向いた。窓の外を、首を精一杯伸ばして見ると、遠くに、確かに東堂がいた。がっしりしたリドレーを従えてピンと背筋が伸びている、立ち姿の美しさに揺らぎのない彼は物言いたげな目をして真波を見た――少なくとも真波にはそう見えた。
怒って行ってしまったと思った宮原はすぐに戻ってきて、薬を真波の手に押し付けた。
「痛み止め。一回一錠、一日二回まで。間隔は四時間空けなきゃダメだからね。水はあるでしょ」
「うん。ありがと」
その場で一錠飲み込んで真波はすぐに席を立った。宮原が今度はどんな顔をして自分を見るのか分かるつもりだったが、そんなことは後回しだ。どちらにせよ彼女なら許してはくれる。
東堂には未だ追いつかない。真波は短く息を吐いた。
「は……こーやって、一人で走ってると……」
呟きたくもなる。頭の痛みは風に洗い流されるように薄れ、今は消えていたが、それを余計に予兆めいたものに感じた。
少しずつ、着実に、近づいている。
長い登り坂の約半分を過ぎて、体は十分に温まっていた。こめかみから伝った汗を拭い、更にペースを上げた。
風が動く。
髪を揺らすのは追い風の気配だ。真波は立ち上がり、一気に加速しようとして――躓いたかのように体勢を崩した。
「え――今」
咄嗟に胸元を掴んだ。羽が出そうになる曖昧な感覚が、普段と違ってはっきりしていた。体の中で俄かに渦を巻き、形を成し、皮膚を突き破ろうとする意思があった。それに気圧されて足を止めてしまったのだ。最高潮に達していた緊張感が不安に支配され、血の気が引いた。
風は真波を置いていった。しかし欲求は鎮まることなく真波の体中を制圧していく。
誘われている。頂上に、疑いようもなく惹かれている。
いいのか、このまま。唆されているようで落ち着かない。その一線を踏み出したら確実に何か一つは取り返しがつかないことになりそうだが、このまま、衝動のままに羽ばたいて、駆け上がって、いいのか。
「良いぞ」と真波は幻聴した。「恐れるな」
首を振って前に向き直る。冷え切ってしまった鼓動が熱を取り戻していく。心臓から全身に回り、吐き出す息まで熱くなり、小刻みに震えた。武者震い、という表現がしっくりくる。逸る心が体を急かしている。
「――行っていい?」
隣で誰かの頷く気配があった。当然誰もいないが、真波は頷き返してペダルをぐっと踏み込んだ。
スピードを上げる。ぞく、ぞく、と血が騒ぐ。髪が逆立つ。痺れる指でハンドルを握りしめる。体が浮き上がりそうなほど軽く感じる。もう我慢できない。抑えきれない。膨れ上がる欲望は、真っ白い羽のかたちで背中から弾け出した。
路傍の木々がざわめいた。壮大に開いた翼は風をつかんでうねり、抵抗を易々と引き裂く。
すごい、これ。思わず緩む口元から声が漏れた。実体のない『そういう風な感じ』に過ぎなかったはずの羽が、まるで本当に体から生えているみたいだ。その動きが手に取るようにわかる。繋がっている。真波の意思に共鳴して羽ばたいている。
最後のカーブを曲がった。前方に一人、ロードバイクに乗っていた。あれほど背筋を綺麗に伸ばして走る人を、真波は一人しか知らない。
カチッ、というような音が頭の裏側で聞こえた。
加速。加速、まだいける。こんなもんじゃない。もっと速く、誰よりも速く山頂へ、とそれだけを欲求する胸の高鳴りが止まらない。
「そう、心配は無用。気が済むまで走って、走って……そうして最後にここまでおいで、少年」
再びの幻聴に真波は力強く頷いた。
ふと後ろを振り向いた東堂が真波に気付いて呆気にとられた。その隙に彼を追い抜き、そのまま前だけ見据えて頂上を突破した。
眼下の景色は、何ということはない見慣れた景色に違いなかったのだが、初めてそれを見たときと同じ種類の感動を覚えた。
役目を終えた翼は何事もなかったかのように消えてしまい、真波は全力疾走の反動で力の抜けた足でペダルを空回りさせた。
東堂がすぐに追いつき、真波の背中を軽く叩いた。
「今のは速かったな! 油断していた。まさかおまえに抜かれるとは」
「東堂さん……オレ、今の、ちょっとすごかった……」
「うん、凄かった。しかし自分で驚いてどうするんだ」
東堂は賞賛と呆れをどちらも隠さずに笑った。真波はまだぜいぜい喘ぎながら、東堂の顔を見て安堵した。彼は確かにそこにいる。手に触れても平気だ。
「良かったぁ……」
「おい、真波、喜ぶのはいいが顔色が良くない」
「ああ、ちょっと頭痛かったんですけど、もう治ったので平気です。えへへ」
「……そういうときは走るな。事故るぞ」
しかめ面の強い語調だったが、優しい声色で東堂は諭した。真波は、はあい、とのんきに返事をした。
ほんの少し、気休め程度の平坦を過ぎると、コースは緩やかな下り坂になる。真波は深く、長く呼吸した。東堂も次第に足を止め、楽に姿勢を崩した。坂道と重力に任せてのんびりと下る。
柔らかな向かい風が火照った頬に心地よかった。東堂の、わざと鼻筋に垂らしている前髪の一房がふわふわ揺れた。機嫌の良さそうな横顔を見ていると、真波の胸の奥もふわっと温かくなった。
本当にそこにいるんだなあ、とは普段ならかすりもしないくらいおかしな感想だった。それもこれも昨日おかしなひとに会っておかしなことを言われたせいだ。彼が近くにいるだけで、なんだか嬉しい。
「東堂さん、オレ、東堂さんは神様じゃないほうがいいです」
「はあ?」
「オレは神様じゃない東堂さんが好きです」
いきなり何を言い出すんだと口には出さなかったが、そういう目を東堂はした。機嫌は損ねたわけではなさそうで、喜べばいいのか、怒ればいいのか、判断しかねている様子だった。
真波は照れ隠しに笑った。笑いながら、あの『山神』はこんな顔はしないのだろうと思った。全て同じくすると豪語していたが、これだけは誰にも再現不可能だと思う。自信に満ち溢れた美しい彼のすべてがほんの僅かに揺らぐ瞬間こそが、真波を惹きつける彼の愛らしさだった。
「人の身に収まるうちはそれで良い」
幻聴にしてはくっきりした声が耳元に降ってきて、風音に紛れた。東堂には聞こえなかったようで、突然あたりを見回す真波を訝しんでいる。
山神様、と真波は呟いた。自分かと構える東堂のことは無視した。
この人が好きだよ。あなたの言ったとおりだった。
その恋心も愛していると言ったぞ。
真波はくすぐったそうに笑った。こんなに頼もしい言葉はない。東堂が気味悪がって小突くのも気にならなかった。
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山の神様の言うとおり
2016/02/10