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俺の青春と幼馴染

​#東亰ザナドゥ #リョウタ×コウ #チヅル #シオリ

 相合傘ってのはどんなもんかな、と思春期の憧れを詰め込んで夢見たそれと現実は、見た目だけはよく似ていた。さらさらした雨音を聞きながら、居心地悪そうに縮こまっている隣の少女へさりげなく傘を差し出すと、自分の肩が少しはみ出して濡れ、そういう不都合は敏感に察知する彼女がさらに縮こまって距離を詰めてくれるので、腕をかすめてふわりと漂ってくる髪の匂いにやりづらい緊張を感じつつ、普段の半分くらいの歩幅でゆっくり歩くのである。
 これで隣の彼女が可愛い恋人なら文句無し、男子高校生らしい青春の一頁に輝くこと間違いなしだった。しかしなあ、と声には出さずともちらちら窺い見る視線に、これもまた敏感に察知する彼女はしかめ面で呟いた。
「悪かったわね」
「えっ、何が」
「アンタの考えることくらいお見通しよ」
 その言い方だと分かっているのか分かっていないのか分からない。困惑するリョウタを尻目に、チヅルは短く溜息を吐いた。
「せっかくの相合傘のお相手が可愛いカノジョじゃなくて悪かったわねって言ったの」
「それで怒ってんの?」
「デリカシーなさすぎ……」
「だって、今更そんなことで冷たくすんなよなあ。傘持ってやってんじゃん」
「なんで開き直るのよ。勝手に入ってきて勝手に持ったのはそっちでしょ」
「おまえが持ったら頭つっかえちまうよ」
「だからって……」
「それにさ、こういうのは男が持つもんだと思うんだよな」
「何それ。また男のロマンとか言うの」
「うん」
「バカね」
 言い返そうとしたリョウタからチヅルはふいっと顔を背けた。愛想を尽かしたようなその仕草は、彼にとっては特別珍しいものではなかったので、肩を軽く叩いて話しかける。
「あのですね、チヅルさん」
「何」
「俺、おまえのこと嫌いじゃないよ」
「はあ? 何言ってるの。そういうのいらないわよ」
「えー、仲直りしようぜ」
「直すほどの仲じゃないから」
「冷てえなぁ……あー、冷たい。めっちゃ寒い」
 わざとらしく首を竦めるリョウタをチヅルは一瞥して、ふと足を止めた。つられてリョウタも足を止める。二人の家がある商店街の入り口まであと数メートルの位置だった。
「ん、どした?」
「……ちょっと黙ってて」
 俯いたチヅルの髪が流れて首筋が覗けた。黒髪との対比で余計に白く見えた。女子の首って細いよなあ、とリョウタは単純な感想を抱いた。それは路傍の石を見て、ああ石があると思うのと同じで、見てはいるのだから興味がないわけではないが、それでどうこうしようとは思わない。幼馴染の彼女だからではなく、誰であっても反応は同じだっただろう。そういう鈍感さが彼にはあった。さりげなく彼女の方へ傘を差し出して左肩を濡らしながら、言われた通りに黙って待っていた。
 深く呼吸してようやく振り向いたチヅルの顔は、見ていてかわいそうになるくらい真っ赤だった。


 玄関のドアを開けて現れたコウは訝しげに眉をひそめた。
「おまえ、傘は? 結構降ってたろ」
「あー……うん。いや、途中まであったんだけど……」
 リョウタは口を濁した。あれは結局チヅルのものなので、彼女が持って帰ってしまった。路地に残されたリョウタは、自宅に帰る気にはなれず、そのまま時坂宅まで歩いてきたのだった。
「入れよ。タオル取って来るから、そこで待ってな」
「ああ、いいよ、これくらい」
「良くねえ。床が濡れる」
 リョウタは薄笑いしながら、「風邪引くからとかじゃねえのかよ」と聞こえよがしに呟いた。コウの返事は「バカは風邪ひかないからな」とこれもまた聞こえよがしな呟きであった。
「おい、せめて伏せろよ」
「本音が出た。すまん」
「まあコウちゃんの塩対応には慣れてますけど」
 ドアが重く閉まるや否やリョウタは身震いした。濡れたせいに加え、他に人の気配がしない廊下の眺めがやけに寒々しかったのもある。コウはすぐにタオルを持って戻ってきた。ふかふかしていて、かすかに花っぽい香りがした。
「ありがとな」
 コウは曖昧に頷き、タオルを頭に被って雑に髪を拭くリョウタを斜に眺めた。
「着替えるか?」
「いや、大丈夫だろ。濡れてるの上着だけだし」
「ふうん……」
 微妙というのか絶妙というのか、不思議なニュアンスを含んだ声色だった。リョウタは首を傾げて見上げた。コウはいつもの仏頂面で、目が合ってもそのままにしていたが、その後に頭を掻くような仕草をして、リョウタからタオルを引き取った。
「先に部屋行ってろよ。コーヒーか何か入れてやる」
「そんなんいいって。大丈夫だよ」
「気にすんな。どうせインスタントだ」
「そういうことじゃなくてね?」
 じゃあなんだ、というような目をコウはして見せた。それが不審がらせるだけでなくいらつかせてしまったようにも見えて、リョウタはあからさまに萎縮して目をそらした。
「いやっ、えーと、バイトあるんじゃなかったっけ……」
「今日はない」
「そ、そっか。うん、でも顔見たら落ち着いたし、やっぱ今日は帰ろっかなー、なんて……」
 コウは訝り顔から呆れ顔に変わった。
「なんでそっちから来といて遠慮すんだよ。変な心配しなくても、話くらいちゃんと聞いてやるっての」
「え?」
 コウは自室の方を顎で指し、リョウタが頷いて靴を脱ぎ始めると踵を返した。
 分かっているのか分かっていないのか、彼に限っては分かって言っているんだろうとリョウタは思った。同じ幼馴染でも彼女とはえらい違いだ。ぼんやりとそんなことを考えながら、階段を上り、コウの部屋へ足を踏み入れた。
 来たのは随分と久しぶりだったが、何も変わっていなかった。小学生の頃からずっと使っている勉強机、ベッド、大きな姿見。リョウタは湿った上着を脱いで勝手にハンガーにかけ、ベッドに腰掛けた。勝手知ったる彼の定位置である。
 ズボンのポケットからサイフォンを取り出して画面を見た。何の通知も出ていない。電話もメールもチャットも、誰からも来ていない。物寂しいような溜息が口から出て行った。
 デジタル数字の時計が秒針の代わりに点滅を繰り返す。
 コウが部屋へ入ったときには、リョウタは大の字になって寝転がっていた。コウは勉強机からベッドの側まで椅子を引いてきて深く座った。初めはリョウタがベッドを占領するので仕方なくそうしていたのが、いつしか彼の定位置になった。
 そのまま少し時間が経った。コウは何も言ってこない。落ち着かなくなったリョウタが体を起こすと、彼はサイフォン片手にコーヒーを飲んでいた。リラックスした仕草は完全に自分の世界に入っているように見え、リョウタには、まるで無視して突き放されているようにも感じられた。気を遣ってそうしているのかもしれないが、他でもない彼にこんな仕打ちを受けるのは本意ではない。本意ではないどころか、絶対に嫌だ、こんなことなら一人ぼっちの方がマシだとさえ思った。急速に心細くなったリョウタは哀れっぽい声を出した。
「コウ〜」
「おう。コーヒー飲むか」
「飲む……飲みます……」
 コウはローテーブルからもう一つのマグを持ちあげた。リョウタが腕を伸ばして受け取ったマグはじんわり熱く、掌をかすかにひりつかせた。
 湯気の立つコーヒーはミルクを足してカフェオレに仕立ててあった。そっと吹いて一口飲んでみると、少しだけ砂糖も入っていた。苦味を抑えるために、かつ甘味が出しゃばらないように調整してある。コウの好みよりは少し甘い、リョウタの好きな味だった。ごくんと喉を通って腹に落ちた熱がふわっと心持ちを穏やかにした。同時に、やっぱりこうしているのが一番いい気がするな、と彼に思わせた。
 ちらと見るとコウはもう話を聞く体勢になっていた。サイフォンはテーブルに置き、両手でマグを支えながら、椅子から背中を浮かせてきちんとリョウタに向き合っている。
「で? 剣道部のミーティングだっけ、今日は」
「うん、それもあったんだけどさ」
 リョウタはカフェオレをもう一口含み、ゆっくり嚥下して唇を舐めた。
「聞いてくれ。俺、ついに告られた」
「へえ。誰に」
「……チヅル」
 なるほど聞いてほしい話とはこれか、とコウは黙って頷いた。しかしリョウタには味気なかったらしく、無遠慮な不満の声が上がった。
「何だよ、その反応。前から知ってたみたいな」
「いや、知らないけど、なんかそんな気はしてたっていうか……」
「そんなハタから見てて分かるくらい、あいつ俺のこと好きだった? うわー、うわぁ……」
 言いながら俯き、そりゃデリカシーないわ、と続けて呟いたところを見ると、リョウタがチヅルの気持ちに全く気付いていなかったことは明白である。そして彼の嘆きは、彼女に対してではなく、彼自身の情けなさと罪悪感に対するものだった。
「それで、おまえ何て言ったんだ」
「……なんにも言ってない」
「え?」
「だってあいつ、言うだけ言ったら走って帰っちまったんだもん……」
「追いかけなかったのか?」
「ちょっとびっくりしすぎて……やっぱり追いかけたほうが良かったのかな?」
 コウは首を傾げるに留めた。リョウタは今でこそあれこれ考える余裕があるが、当時は理解が追いつかずに固まっていたのだと想像に難くない。そんな状態で気の利いた台詞を返せるはずがないのだから、下手なことを言って怒らせるよりは、一旦見送ったのは懸命だったと言えるだろう。
 やがてリョウタは頭を抱えて呻いた。
「どうしよう、俺、チヅルと結婚すんのかな……」
「良かったな」
「お、おう、ありがとう? いや、ありがたくねーわ。俺は、チヅルはそういうんじゃない、絶対そういうことにはならないってなんでかどっかで思ってて、多分だからそれなりにやってこれてたのにあんなこと言うから、じゃあ俺は、今までは一体なんだったんだって、今更言われてもどんな反応したらいいのか全然わかんねえんだよ!」
「落ち着けよ」
 顔を上げたリョウタは情けないハの字になった眉を、コウの顔を見ながら段々と水平に戻し、やがて「おまえにはわかんねーよな」と悲しげに言った。
「だってコウはさあ、どうせシオリちゃんと『大きくなったらケッコンする〜』とか言ってたんだろ?」
「あー……まあ、そんなこともあったかもしれないけど……」
「俺とチヅルはおまえとシオリちゃんとは違うの! そりゃ、おんなじよーに幼なじみで家も近くてヨチヨチ歩きの頃から知ってるけど! 親も友達も公認の仲とかじゃないし! 大きくなったら云々のアレもなかった!」
「俺とシオリだってそういう仲じゃねえぞ」
「そういうところがホントに、こう、なんつーの? 本命の余裕っていうの? おまえマジで全国のシオリファンに謝れよな!」
「分かった、分かったから」
 辟易した様子でコウは片手を振りながらマグに口をつけた。リョウタが不満をあらわにじっと見つめる。やがて、コウはふと窓の外へ目をやった。食い入るような視線から逃れるためかもしれなかった。
「あのさ、なんで告白されただけで結婚まで考えんだよ。今までそういう目で見てなかったんだろ」
「いや、だから余計に、っていうかさ……俺は、あいつもそうだと思ってたわけ。それが急に好きとか言ってきたら、それはマジの本気じゃん」
「じゃあ、とりあえずそういうことにして」
「俺はどうしたらいいんだ……」
「俺も考えてる」
「なあ、これはなんとなく、っていうか、第六感? 根拠はないけど多分そうだろうなって思うんだけど、あいつと付き合ったら俺もう終わりな気がする。悪い意味じゃないんだけど、逃げられないっていうか、なんかそんな感じするんだよ」
「ああ……うん、それは分からなくもない」
 コウは頷いたまま軽く俯いた。確かに、リョウタとチヅルが一度そういう関係になったとしたら、遅かれ早かれ結婚はするだろうなと思った。疑う余地もなくそう思えるくらい、今も明確にそうではないだけで同じくらいの距離で付き合ってきた。ただの友達より近しく大きな存在であることには間違いない。ただ、それはリョウタがチヅルに恋心を抱いているせいではなくて、近すぎる彼女を無意識下では家族と同じ括りにしてしまっているからだ。誰よりも大切に思い、何よりも優先しなければならないと思うこともあるが、それはまだ彼女に恋しているからではない。
 そう考えると、リョウタの第六感は恐らく正しい。家族同然という意味において親密な関係を失うリスクを知りながらチヅルが踏み切った告白が嘘や冗談であるはずがない。もちろん本気だろう、打ち明けた想いだけでなく、自分を恋愛対象として再認識してほしいという期待も少なからず含めて。それに頷いてしまえば、後は流れるように事は進んでゆくだろう。周囲の後押しも十分すぎるほど期待できる、切っても切れない幼馴染の呪縛の中で、彼女の覚悟が後戻りを許さない。
「……断りたくないな……」
 リョウタはマグに口をつけながらぽつりと呟いた。コウが見ると、バツが悪そうに唇をゆがめて笑った。
「嫌いなわけじゃねえのよ、あいつのこと」
「だろうな」
「でも、好きってわけじゃない。いや、好きなのは好きだけど、いざチヅルとって考えたら、なんか嘘っぽいっつーか、実感がわかないっていうか……恋人になって付き合うとかはできないと思う」
「そうか」
「これ言ったら最後、死んでもヒカリヤの前歩けねえな」
 リョウタは一変してからっと笑った。マグに半分ほど残っていたカフェオレを飲み干し、ふうっと息を吐き出す。
「今までどおりじゃダメなのかなあ」
「さあな」
「どうせならコウの方がいいんだよなあ。俺、おまえのこと好きだし……女だったら良かったのに」
「どっちが?」
「そっちが……」
「次言ったら殴るぞ」
「はは、そりゃ怒るわ。ごめん。でもちょっと本気だったりして」
「マジかよ」
「いいじゃんよう、俺とおまえの仲だろ」
 コウは何かを迷うように表情を曇らせ、どんな仲だ、とぼやいた。リョウタの視線に気づくと、がたついた不自然な動作でマグを口に運んだ。
「おまえさ……」
「うん?」
「……おまえが相談しにくるときってさ、いつも先に結論出てるよな。俺ホントに聞いてるだけじゃねえか」
「そうかな? なんかコウに聞いてもらってると落ち着くからなぁ。俺的には話しながら段々整理できてるっていうか……たぶん、俺の考えてることが変じゃないかどうか確認してもらってんだと思うよ」
 ふうん、とリョウタの膝辺りを見るコウは、もう普段の仏頂面に戻っていた。

 


 翌朝、またもや取り残されて一人で歩きながら、リョウタは首をひねった。
 逃げるように走り去ったチヅルの後ろ姿の既視感にぼうっとしているうちに彼女は視界からいなくなり、急に足が重くなるのを感じながら、ここで彼女を追いかけるのはやはり得策ではないと鈍る頭で考えた。追い打ちをかけるようで気が引けたし、何より女の子にあんな顔をされたら、男は何も言えなくなってしまう。
 その代わり、喉の奥は固まり切らない言葉でもやもやしていた。昨日もそうだった、と思い出せばほろ苦い。
 ようやく吐き出せたのは放課後である。シオリは図書室に寄ると言い、ジュンはサブローに呼ばれて、二人とも教室を出てしまった後、じゃあ俺もと席を立つコウをリョウタが引き止めた。
「ちょっと……聞いて?」
「今日バイト」
「ヤナギさんとこだろ。寄り合いだもんな」
「そう。おまえも親父さん出かけたら店番だろ」
「俺フラれたんだけど」
 コウは驚いた顔になってゆっくりと座った。椅子に横向きに掛け、リョウタの机に頬杖をついた。
「誰に?」
「チヅル……」
「おまえ何言ったんだよ……」
 リョウタは首を傾げた。顔中に困惑を押し並べて、こっちが知りたいよと言わんばかりだ。
「いや、昨日、話聞いてもらってまとまったからさ、今朝来る途中で偶然会ったからちゃんと謝ろうと思ったんだけど、なんか……フラれた。嘘だから気にしないで、って……嘘なわけねーよな!?」
 コウは、見てないから知らないけど、と口には出さず、真剣な顔を作って頷いた。
「なんでだよお……あんな風になかったことにされちゃったら悲しいだろ……」
「けどおまえ、断るって言ってたのに」
「それはそうなんだけど、告られたのは嬉しかったの!」
 リョウタはハッと何かに気づいた様子で意気消沈し、机に突っ伏してしまった。
「だって高校入ってから初めてだったんだもん……」
 コウは頬杖をやめて、リョウタの頭を撫でた。リョウタはか細く呻くような声を上げた。
「俺さあ、あいつの方がよっぽどバカだと思うんだけど……」
「よしよし」
「俺の純情もてあそばれた……」
「どんまい」
「もう俺にはコウしかいないんだ……おまえに慰めてもらうしかないんだ……」
「そうだな、俺が女だったらな」
「うわ、根に持ってる。ごめんって言ったじゃん」
 リョウタがのそりと顔を上げると、コウは何かに迷うような表情をしている。昨日、彼の部屋で見たのと同じだった。
「コウ?」
 何を迷っているのか、もう少しで分かりそうだ。まだ髪に触れている指先の力加減で、彼自身とリョウタにもっと違う何かを伝えようとしていた。しかしコウは手を離し、ごく自然な動作で立ち上がった。
「もう行かねえと」
「え、もう?」
 コウは振り返らなかった。追って立ち上がるリョウタの脳裏に「ダメじゃない」という言葉が浮かんだ。何が「ダメじゃない」のか、まだ捉えられないその答えはコウが迷っている理由と同じに違いない。

 


 リョウタはヤナギスポーツ用品店の出入り口を守る古びた引戸を勢いよく開けて中へ入り、右手にバーコードリーダー、左手にテニスボールの箱を持ってレジカウンターの奥に座っているコウの元まで大股で歩み寄った。
「うるせえな。ガラス割れたらどうすんだ」
「あのさ」
「なんだよ」
「全然ダメじゃない気がしてきたんだけど」
 明らかに不審がりながら「何が?」とコウはぶっきらぼうに言った。リョウタはカウンターに身を乗り出した。気圧されて引くコウの目をしっかり見据える。
「俺、おまえのこと好きなのかな?」
「……何言うかと思えば。俺のこと嫌いなのかよ」
「いや、そんなわけない」
「じゃあ好きなんじゃねえの」
「ああ、そっか、じゃあ好きだわ。……じゃなくて、『じゃあ』じゃなくて!」
「サボりに来たなら棚卸し手伝ってくれてもいいんだぜ」
「これが真剣な話でだな……」
「ふーん」
「もうちょっと興味持ってくれませんかね?」
「もうちょっと興味持てるように話してくれませんかね」
「え、それムズい……」
 コウは段ボール箱をリョウタに手渡した。これあっちに戻して、と可愛げのない指示付きである。受け取ってしまったからにはリョウタは言われた通りにする他なかった。
「うーん、こんなはずではー……昨日はちゃんと聞いてくれたじゃんかよ」
「だっておまえ、さっきから全然話そうとしてねえだろ」
「いや、だからぁ……」
 リョウタは展示棚の下に箱をしまって足早に戻ってくると、カウンターを越えてコウの背後に立った。
「コウ」
「あん?」
「ちょっとこっち向けよ」
 コウは首を傾げながらも手を止め、椅子をガタガタと回して振り返った。
「変なこと聞くから笑わないでほしいんだけど」
「おう」
「抱きしめてもいいかな……?」
 コウはぽかんとした後に吹き出した。
「ぶはっ、なんっだそれ!」
「あー、うん、そうなると思ったけど」
「なんだ今の、おまえ、『抱きしめてもいいかな?』ってなんだよ……! 今度はアレか、少女マンガでも読んだのか?」
「ちがうっつの」
 腹を抱えて笑うコウに、リョウタは出涸らしもかくやという渋いしかめ面で詰め寄った。
「で、いいの? ダメなの?」
「なんで」
「いいじゃん! 一回だけ!」
「やだよ、気色悪い」
「ですよねー、わかってましたー。ええ、わかってましたとも!」
「嘘、嘘。ほれ」
 コウは両手を広げ、リョウタを迎える体勢をとった。面白がる笑顔のままだ。しかめ面のまま吸い込まれるように抱きついてもリョウタはまだ無感動だった。間近に触れる体温は暑いくらいだったし、鼻先にはタオルと同じ柔軟剤の花っぽい香りがする。なんだやっぱり何ともないじゃないか、ともう少しで納得できそうだったのだ。
 ところが、コウの腕が背中に回った瞬間、そんな呑気な考えではいられなくなった。腕はするりと絡みつき、手のひらがそっと背中を支えた。勢い任せでこの先どうすべきか考えていないリョウタをしっかり受け止め、もう少しここにいろとばかり優しく抱擁する。呆れた小さな吐息が首すじへ漂い、肌の裏がざわめく。まるで愛撫されてでもいるかのように喉の奥が震えた。
 言葉に表せないこの気持ちは、生まれてこのかた味わったことのない怒濤である。
 ぱっと体を離したリョウタは思わず口元を押さえた。ダメじゃないどころの話ではない。息が上がりそうだ。内側から燃え上がるように、胸が熱い。
 そんな幼馴染のおかしな様子を、コウは店中に射し込む西陽のせいで手をかざして見ている。不思議そうにすがめた色の薄い眼が金色に染めあげられていた。
 リョウタは瞑目して息を吸い、目を開いた。頭の中では叫んでいたが、実際に出たのはやっと絞り出すような掠れ声だった。
「俺、おまえのこと好きだ……」
 コウは眩しさに眉を寄せたまま、ふっと笑った。
「良かったな、ちゃんと分かって」
 なんだその顔、とリョウタは思った。そういうことじゃない。じゃあなんだ、と言われたところで返答に困るが、とにかくそんな風に安心させるために言ったわけではなかったのだ。分かっているのか分かっていないのか、否きっと分かっているはずなのにもどかしい――というか、安心ってなんでだ、この状況で。
 気は済んだかと様子をうかがうコウに向かってリョウタは深呼吸し、とうとう何も言えず、意味もなく握手をしてから店を出た。

 


 そういう事件が起こると、次に顔を合わせたとき気まずくなったりしそうなものだが、どうやらそれはリョウタの方だけ、しかも最初の一瞬だけだった。翌朝、ぎこちなく挨拶するリョウタに、コウは「なんでそんな不細工な顔してんだ」といつもの仏頂面で不思議そうに言った。その一言がリョウタの緊張に穴を開けた。
「何!? イケメンの嫌味!?」
「違う、表情! 表情の話だから!」
「ほかに言い方あるだろ……」
「怒ったゴリラみてえな」
「もういい」
 これはこれで物足りなかった。確かに昨日はチヅルのように覚悟するでもなく思わず口走ってしまったが、それだけに嘘も見栄も入り込む余地はなかったはずだ。しかし彼は何事もなかったとばかりに澄ましている。有耶無耶にしようとしているのか、そもそも少しも響かなかったのか。
 むしろ気まずいのはシオリに対してで、「何か悩みごと?」といつものように気遣ってくれたときの後ろめたさといったらなかった。
 そりゃそうだ、と容易く納得する。彼女には口が裂けても言えない。何故なら誰が見ても――勿論リョウタから見ても――誰よりもコウの側にいて、何よりも一番彼を大切に想っているのは彼女だ。当人にまだその気がないとは言え、自分はどう好意的に解釈してもらっても結局横恋慕なので馬に蹴られてもやむなしである。
「どうしたの? そんな怖い顔しちゃって」と声をかけながら、隣の席にジュンが座った。
「落ち着いて考えたら俺、失恋しそう……?」
「ああ……まあ、がんばんなよ」
 聞いておいてどうでもよさそうに適当なことを言うのは内容が内容だから仕方ないとしても、ジュンにはもうちょっと優しくしてほしいと思うリョウタであった。
「そりゃ、頑張って上手くいくならいくらでも頑張るけどさー……そーゆーことじゃねえじゃん?」
「それ僕に聞いてる?」
「うーん……」
 机に頭を転がしてリョウタは呻きながら続けた。
「俺的にはバッチリ告ったつもりだし、相手も分かってるはずなのに何の反応もないってさあ……ジュンだったらどう思う?」
「えー……それってもうフラれてるんじゃない?」
 途端、ばちんと音がするほど勢い良くリョウタは耳をふさいだ。ジュンは苦笑する。
「相手にされてないってことでしょ」
「聞きたくない。聞こえない」
「潔くあきらめたほうがいいと思うけど」
「俺は望みを捨てない男……」
「また随分入れ込んでるね。そんなに美人なの?」
「人を面食いみたいに言うんじゃねえよ。中身も大事に決まってんだろ」
「はいはい、中身もね」
 予鈴を合図に、ジュンは素っ気なく興味を教科書へ移し、リョウタも仕方なく頭を上げてノートを開いた。
 教室の前の扉から、大きな三角定規を抱えたトワに続いてプリントの束を抱えたコウが入ってきた。リョウタは、彼が列毎に配り終えて席に戻ってくるのを眺めていた。
 朝はそこまでの余裕がなかったのだろうが、改めて見るとコウは美人に見えた。母親譲りの切れ長の双眸は猫のようにくりっとして、体質的に日焼けしづらい肌は透明感があるし、鼻筋は高くはないにしてもすっと通り、さらさらの髪は女子顔負けに艶々している。長めの首と手足は案外細く、武術のおかげで締まった体はあくまでもしなやかで、何より普段から癖でそうなっている、物言いたげにつんとした唇の質感が色っぽい。総じて可愛い。ジュンに言ったことは真実だが、これなら見た目だけだったとしても十分すぎるとさえ、今や思える。
 我ながら眉をひそめてしまう。毎日のように見ているから、コウが突然変わったわけではないのは分かる。変わったのは自分が彼を見る目の方だと。しかも彼に対する「可愛い」はどうやら、例えばSPiKAやらシオリやら時々はチヅルに対しても思い浮かぶそれとは勝手が違う。
 コウは特に気にする風もなく、最後列のリョウタにプリントを手渡した。
「ほれ」
「サンキュー」
 そしてリョウタの前の席に座った。これも全く普段通りだった。しかしなあ、と声には出さずともちらちら窺い見る視線を、コウは察知したのか後頭部に手をやりながら振りかえる。
「んだよ、何かついてる?」
「いんや。寝ぐせはちょっとついてるけど。あっ、ちょうどそのへん」
「ほっとけ」
 コウは前に向き直っても寝ぐせの髪をいじるような仕草をしていたが、すぐに諦めたようで、流れを乱す一房はそのままになった。
 リョウタはそこから目を離さないものの、もはや見てはいなかった。手を伸ばして触れたらどうなるかと考えて、髪をきっかけに、そうっと首に触れて、耳に触れて、頬に触れて、その次は――。
「なあ」
 コウが体を傾けて話しかけてきた。今度は射程圏内に入った唇に視線を惹きつけられて、リョウタは生返事をした。コウは白けた顔になって腕を小突いた。
「ごめん、なに」
「シャー芯くれ。切らした」
「ああ……はいよ」
「サンキュ」
 コウはすぐに前を向いたが、目ざとい従姉の一睨みに首をすくめた。リョウタはとばっちりを食わないよう真面目に聞いている風の顔をしながら、なかなか収まらない鼓動に内心では感動すら覚えた。今更顔が近いくらいでこんなにドキドキするなんて、まさしくそういう目で見ているという証拠ではないか。

 


 暫定的ではあるが。手を握る、抱きしめる、この二つをクリアしたなら当然、その先も気になって仕方がないのが健全な青少年というやつだ。
 日々悶々と過ごしていると「すまねえシオリちゃん」と心の中で唱える回数が増えた。あらぬ妄想とワンセットだからだ。ネットで現実を垣間見る勇気はまだなく、今までに仕入れたありとあらゆる『そういうもの』に其々都合よく改変された彼を当てはめる遊びに耽った後は必ず、冷えきった違和感と心配そうな困り顔で見つめてくれる彼女の顔に挟まれて居た堪れなくなるのだった。
「らしくねえな。静かでいいけど」
 コウは椅子に横向きに掛け、机に突っ伏しているリョウタの頭をつついた。
「何をそんなに悩んでんだか」
 重い頭を持ちあげて見ると、コウは鞄にノートを詰めているところだった。
「悩みのタネがそれ言う?」
「俺かよ。とりあえずすいませんでした」
「せめてこっち見てから言って」
 言われてコウは顔を上げたが、気だるそうな目つきでリョウタの方を、少し引いて眺めるようなやり方で見た。それでも視線を合わせられるとリョウタはどきりとして、無意識に唇を噛んだ。鳩尾のあたりがくすぐったいような気さえした。
「やっぱそんな見ないで……」
「はあ? 知らねえよ。ジュン、もうこいつ置いて帰ろうぜ」
「あはは、いいよ」
「イジメかっこわるーい」
 先に立ち上がったコウとジュンにリョウタがわざとのんびりついていくのを見て、シオリがくすくす笑った。
「じゃあな。帰り、気をつけろよ」
「大丈夫だよ。コウちゃんたちも気をつけてね」
「あ、シオリちゃんは一緒じゃないんだ?」
「この後コマチさんと約束してるの」
「コマチさんって、図書室の人だっけ」
「一人じゃ大変そうだから手伝ってんだと」
「えらいねえ」
「いつもお世話になってるから」
 シオリはひらひらと手を振って見送ってくれた。手を振り返して教室から出た矢先、ジュンが三人の女子生徒にさらわれていった。曰く、「ジュンくんはお姉さんたちとお茶するのよね!」と無茶苦茶だが、苦笑いしながら連れて行かれるジュンは大して抵抗せず、助けも求めなかったし、コウもリョウタも早々に諦めて見送る態勢である。止めに入ったところで、結局女子には敵わないことを散々思い知らされているせいだった。
「モテる男はつらいな」
「モテない男よりマシだと思うぜ……」
「はいはい、モテない男は大人しく帰ろうな」
「おまえ自分がモテるからってさあ」
「モテねえよ。知ってんだろ」
 そこからは誰に呼び止められることもなく、通りすがりに軽口を言ったり手を振ったりして、二人で他愛ない話をしながら学園を出た。
「なんだかんだ、またこの二人か」
「だな」
「どうするよ、どっか行く?」
 コウはリョウタの前に回り込み、しげしげと顔を眺めた。教室でしたのとは違う、近くでじっと見つめる目にリョウタは頬が熱くなるのを感じた。
「な、なに……?」
「コンビニ寄っていいか?」
 拍子抜けである。思わず膝の力が抜けそうになった。
「いいけど。なんか買うの」
「シャー芯」
「そんなん購買で買えばよかったのに」
「だな。忘れてた」
 踵を返したコウは、頭をぽりぽり掻きながら歩き出した。何かに迷うような表情をしている。例によって「ダメじゃない」が喉元まで来ているのを感じながら、リョウタは隣で空を見遣った。どんより曇った空にその先端を差し込むようにアクロスタワーが建っているのが見えた。
 帰路の途中のコンビニで、リョウタは少年誌とポテトチップスを買った。
「コンビニ行くと、ついつい余計なもん買っちまうよなぁ」
「わかる。コンビニと百均はやばい」
 そう返してくるコウも、膨れた小さなレジ袋からスナック菓子の派手な包装が透けて見えている。
「なあ、コウ」
「うん?」
「おまえんち行っていい?」
「いいぜ」
 いいのかよ、と内心つっこんでしまった。彼の両親は未だ不在で、家に行けば何の気兼ねもなく二人きりになれる。だから半分は言い訳のつもりでの無駄遣いだったのに出番すらないとは。正直に鼓動は早まってきたが、どうも釈然としなかった。
 こちらがまだなってもいない二人きりの状態を想像するだけでも緊張するのに、相手がそうでないのは不公平なように思うのだ。コウは、自分を好きだと言う男と二人きりになることに何かを感じてくれたりはしないのだろうか。
 隣を歩くコウをちらりと見ると、事もあろうに大きな欠伸をした。感じないから平然としているんだろうなあ、と思えばリョウタは重い溜息を禁じ得ない。もしかしてあの告白が本当は伝わっていなかったんじゃないかと不安になった。人一倍察しの良いコウも、自分自身に向けられる好意には極端に鈍いとか、そんなラブコメの主人公みたいな性質が実はありました、と言われても彼ならば不思議はないと思う。何せ、実際そうだし。
 この無愛想な顔と裏腹に人には優しいものだから、陰では人気が高いと聞いたことがある。ただし、あくまでも陰で。リョウタの知る限り、机や鞄に手紙が入っていたことはないし、バレンタインデーにロッカーに入っていた数個の本命らしきチョコレートはどれも贈り主が分からずじまいだったと言っていた。クリスマスも夏祭りも千秋祭も、いつも自分やシオリと一緒だった。だからだ。彼のそばにはいつもシオリがいて、彼がそれを必要としているのが傍目にも明らかだから、彼を好きになるくらいマトモな感性の持ち主なら、わざわざ間に割って入るなんてことはしない。
「結構降りそうだな……」
 コウが呟いた声でハッと我に返ると、先程より空が暗くなっていた。 

 


 家に着いても雨は降らなかった。閉め切られていた家の中は空気がこもって蒸し暑く、コウは渋々部屋の窓を開けた。外気も湿っぽいのだが、弱い風が吹き込むので閉めたままよりはマシだった。
 二人並んで床に座り、それぞれに買ってきた菓子をテーブルに広げた。昔からコウはベッドを汚すのを嫌がる。リョウタは少年誌を膝に置いて読みはじめた。その間、コウはサイフォンをいじっていた。次第にどちらともなく相手の菓子にまで手を伸ばし、サクサク、パリパリ、と咀嚼音が混ざる。
 リョウタは数分で少年誌を閉じてしまった。隅々まで読むたちでもなく、目当ての漫画を幾つか読んだらもう満足である。
「おまえも読む?」
「ん、あとで」
「何見てんの?」
 覗き込もうとすると、コウの方からサイフォンを差し出して見せてくれた。サッカーの試合のようだった。
「昨夜の試合か。俺、テレビで見た」
「見ようと思って寝落ちた」
「ふはっ、マジか」
 コウはポテトチップをつまんで食べ、ベッドにもたれて動画を見ながら指先についた欠片を舐めた。ちらりと覗いた舌の動きにリョウタの胸中がざわつかないはずがない。妄想の中の彼よりも自然に、他意なくそうしているので却って頭に血が上る。
 コウは物言いたげにつんとした唇へ指先を乗せたまま、わざわざ見ている割には気だるい眼差しで、興味なさそうに脚を組んで小さな画面を眺めていた。
 ――言い訳かもしれないが。彼は待っているように見えた。
 一緒に画面を見たいようなフリをしながらリョウタはにじり寄り、更に言い訳がましくガサガサうるさい小袋を差し出した。ここは阿吽の呼吸でコウは一瞥もすることなくポテトチップをつまみ、かじった。袋をテーブルに戻しながら、今度は唇についた欠片を舐めとる舌の動きに目を吸い寄せられてリョウタは苦しいほどドキドキした。もはや冷静でいられない頭に、すっと染み入る考えがあった。自分が『彼を好きになるくらいマトモな感性の持ち主』なら端から男相手にこんな気持ちになったりしない。
 薄ぼけた彼女の影を脳裏からかき消すように、そうっと息を吸った。コウ、と呼びかけて肩に手を置くと、コウは振り向いた。
 瞬きする間もなく、彼の唇へ自分の唇を重ねてリョウタは目を閉じた。柔らかい感触が伝わり、そこがじんわりと痺れるような錯覚を起こした。数秒の硬直の後、コウがやっと驚いて身動ぎしても、唇を追ってまた塞いだ。少しでも離れるたびに物足りなさが募って余計に求めてしまう。後ずさる背中へ腕を回して引き止め、押し離そうとする手を軽く往なして握り返し、終には身体を擦り寄せるように抱きしめて、夢中で唇を触れ合わせた。
「っの、バカ……!」
「がっ」
 とうとうリョウタは蹴り飛ばされて無様に転がった。鳩尾をさすりながら起き上がると、コウは顔中を真っ赤にして肩を上下させていた。
「いきなりこんなことすんじゃねえ!」
「えっ、あっ、つい」
「ゴメンナサイは」
「ああ、ええっ? ごめんなさい?」
 コウは呼吸を整えるのに苦労している様子だった。胸元をぎゅっと掴んで、何度も深呼吸のなりそこないを繰り返している。頬が真っ赤なままだ。この反応を見るに、嫌がって止めさせたわけではなさそうだ、とリョウタは内心ほっとした。ということは、やはり自分の気持ちは間違いなく彼に伝わっていて、その上で涼しい顔をされていただけのようだ。よかった、と素直に言い切れないが、疑念が一つ晴れて一安心である。
 気分が落ち着いてくると、蹴られた鳩尾がじわじわと痛みはじめた。
「いてて……結構本気で蹴ったろ、おまえ……」
「あ、悪い……」
「いやまあ、俺のせいなんだけどな……」
「湿布取ってくる。そのまま動くなよ」
 慌てて部屋を出ていったコウが戻ってくるまで数分かかったが、その後の手際は良かった。リョウタをベッドに寄りかからせ、「脱がすぞ」の一言でさっさとシャツを捲り上げ、患部を押して骨に異常がないことを確認した。
「え、おまえの蹴り、骨折れんの」
「当たり具合による」
「へえー……」
 折られなくて良かった、と口にしたら本当に折られそうなので飲み込んだ。コウは丁寧に湿布を貼り付け、シワにならないように撫でた。正当防衛と開き直っても良いのに、申し訳なさそうにしている様子がなんだか可愛らしかった。
「これなら、できて青アザで済むはずだから……」
「アザくらい平気だって。部活で散々作ってるし」
「でも、結構思いっきりやっちまったぞ……」
「骨いってなきゃ大丈夫」
「……なんで急にあんなことしたんだよ」
 リョウタは口ごもって、見上げるコウから目をそらしながら言った。
「急っていうか……ここ数日、ずっとしたいと思ってて……」
「は……?」
「い、嫌だった……?」
「あ、いや……でも……」
「……あー……ごめんな、コウ……」
 リョウタはたまらずベッドの縁に頭を乗せ、片手で目を覆った。本当は顔を覆いたいほどだったが、唐突に恥ずかしさが湧いてきて、もう片方の腕には力が入らなかった。
「いや、なんでって聞いてんのに……」
「……だってさぁ……」
 好きになったら、手を繋いだり、抱きしめ合ったり、キスをしたり、とにかく触れたいと思ってしまうのが健全な青少年というやつじゃないか。困らせてしまうから押しつけられないだけで、それはお互い様なんじゃないのか。
 コウの迷う表情が見なくてもわかった。脳裏をちらつく後ろめたさに喉を塞がれそうになりながら、胸の燃えるような熱さを感じながら、リョウタは深く息を吸い込んだ。
「コウ、俺は、何もダメじゃないと思う」
「……リョウタ……」
「だから俺と付き合ってくれ」
「ダメだ」
「……へ?」
 手を跳ねのけて見るとコウはまた顔中を真っ赤にして、迷いの晴れない表情で目をそらしていた。
「おまえの気持ちはわかった。でも、それとこれとは話が違う」
「はあ!? それおかしいだろ!!」
「おかしいのはてめーの頭だ、バカタレ」
「どういう意味だよ」
「おまえは男で、俺も男だろ」
「そんなん知ってるし分かってる!」
「分かってねえんだよ!」
 珍しく声を荒らげてコウは食い下がった。
「なんで俺だよ、チヅルちゃんがいるのに!」
「今チヅルは関係ないだろ! そういうんじゃないって散々……」
「向こうはそう思ってない!」
「だから関係ないって、そんなのは! それを言うならおまえの方こそ」
 リョウタはそこで口を噤んだ。
「え、な、なんだよ、泣くなよ……」
「……分かってたらあんなこと言わねえよ」
 両目をいっぱいまで潤ませながらコウは続けて口を開いた。
「おまえなんか、チヅルちゃんと結婚しちまえばよかったのに」
「なんだよそれ!」
「思わせぶりなんだよ!」
「何が!」
「とにかく、付き合う気はない。彼女の代わりにはなりたくない」
「は!? 誰の代わりだって!?」
「どう頑張ったって女の代わりにはなれないだろ!」
「おまえは何を聞いてたんだよ!」
 肩を掴もうとした手が逆に掴まれ、組み合うような状態で向かい合った。投げられなかっただけ上等だ。勢いでコウの目尻から涙が一粒落ちたが、どちらも手を離せず睨みあう。鳩尾が軋むのを堪えてリョウタは息を吸い、言った。
「誰も女の代わりがほしいなんて言ってない」
「俺が女だったら良かったって言ったのはおまえだろうが!」
「うぐっ、確かに……」
 コウはぐすぐすと鼻をすすった。
「ほら言い訳できねえだろ」
「ごめん、あれはちょっと、意味が違くてだな……」
「どう違うんだっ」
「いやー、その……お、怒るなよ? って、もう怒ってるけど……」
 つい先程までの勢いが嘘のようにリョウタの声がしぼんでゆく。コウは手を払い落とし、よし言ってみろ、と言わんばかりの高圧的な目をした。
「あれは、コウに女になってほしいって意味じゃなくて……多分その、キスとか、女とするようなことをおまえにしてみたいって意味で……」
 コウはまた鼻をすすった。眉間の皺が深くなる。
「一緒じゃねえか」
「違うんだって。チヅルとかはそういうのむしろダメだったんだけど、なんかフッとコウだったらいけるかなーとか思っちゃって……」
「なんでだよ」
「好きだから?」
「疑問形」
「そのときはまだ分かってなかったし……」
「ああそりゃそうだろうよ、ヤナギさんとこでハグするまで好きじゃなかったくせに!」
「その前にも好きだって言いましたけど!?」
「どうだか。あんな試すような真似しやがって」
「だからあれは!」
「本当に俺が好きなのか分かんなくなったんだろ!」
「だっておまえは俺のこと好きだったじゃん!」
 コウは殴られたように絶句した。リョウタも驚いた。まるで独りでに出てきた言葉だった。だが、思い返してみれば全て納得がいく。彼の迷う表情の理由と、そのたびに湧いてきた「ダメじゃない」の理由はやはり同じだったということだ。
「あー、その……しょっちゅうあんな顔されてたら、さすがに分かるっていうかさ……」
 コウは何か言い返そうと口をぱくぱくさせるが、まだ声にならないようだった。構わずリョウタが続ける。
「こんだけ近くで好きになられたら、俺も好きになっちゃうだろが」
「そ、んな……そんなのってありかよ……」
 掠れ声を漏らしてコウは項垂れ、両手で顔を覆った。今度は首筋まで赤いのが見えた。
「なんで俺だけ……」
「コウ?」
「今話しかけんな……」
 こんなに恥ずかしがっているコウは初めて見る。どんどん小さくなっていく姿を見ていると、気づいたのはついさっきだという真実はこのままリョウタの胸中だけに仕舞っておくほうが良い気がした。せっかくの可愛い照れ方を堪能させてもらう方が大事だ。
「なあ、コウ」
「なに……」
「もっかいキスさせて」
 コウは項垂れたまま、おまえってやつは、みたいなことをモゴモゴと言った。これはだめかとリョウタが諦めかけたとき、彼は黙って頷いた。
 顔を覆い隠している両手をそっと掴んで外す。熱い頬に手を添えるとビクッと肩が震えた。大丈夫、と半ば自分に言い聞かせて右の手を握り、顔をゆっくり持ち上げた。コウは目線を低い位置にうろつかせながら、唇をぎゅっと引き結んでいた。頬から親指を伸ばして、閉じた上下の唇の境を撫でた。より頑なに閉じたここに今から触れるのだと思うとたまらなく緊張した。しかしコウは頭を振ってリョウタの手から逃れた。
「そういうのいいから、するなら早くしろ」
「えー、雰囲気は大事だろ」
「おまえにそんなもんねえよ」
「ひっで」
 眉根を寄せて睨むコウは、ふうっと息を吐いて観念したように目を閉じた。リョウタは手の指を絡めて握った。それから唇へ触れた。夢のように柔らかく、先程よりあたたかく、今度はたった一度で十二分に満たされた。

 


 気づけば雨が降っていた。
 リョウタは机に突っ伏して、コウは椅子に横向きに掛けていた。梅雨でもないのに雨ばかりだね、と窓の外を見ながらアスカに話すシオリの声を聞いている。
 今日の予定、明日の天気予報、週末の約束、まるでじゃれ合うような、何も知らない声のやりとり。首筋がちくちくした。すまねえシオリちゃん、と頭の中で唱えながら溜息をついた。
「何をそんなに悩んでんだか」
「わかってんだろ」
「まあ、うん?」
 それはそれは腹の立つ返事の仕方である。分かっているなら頭を撫でないでほしいのだが、心地良いのでやめろとは言えない。
「なあ、付き合って」
「ダメっつったろ」
「やっぱダメなのかぁ……」
 想いが通じたはずなのに、コウはこれだけは首を縦に振らない。やっぱりシオリちゃんがいるから、と思うことは思ってしまうのだが、久々の大喧嘩にまで発展したあのときの取り乱し方を思えば、下手に勘ぐるのをやめて、彼が気持ちの整理をつけるまで待ってやる余裕を持つべきなのかもしれなかった。リョウタも勢いで彼の秘密を言い当ててしまったことについて反省はしているのだ。
「リョウタ、そればっか言うけど、なんでそんなに付き合いたいんだ」
「んー? うーん……好きだから?」
「付き合ったら何か変わると思うか?」
「……変わんねー気がする」
「だったら別にいいだろ」
「でもさー、おまえさー、好きな子に『付き合って』って言って『別に』って言われる男の気持ち考えたことある?」
「要するに意地なんじゃねーか」
 コウは手を止め、リョウタの頭を机に転がすように軽く揺すった。
「おー、これいいかも、痛気持ちいい系」
「おまえはホント楽でいいな……」
「せいぜい楽したまえよ」
「何してるの、それ」
 怪訝そうな声に顔をあげてみるとチヅルがいた。リョウタが無意識に緊張しているのに気づいたのか、一瞬にして彼以上に緊張した面持ちになってしまった。事情を知るコウはあえて事もなげにチヅルに声をかけた。
「なんか気持ちいいらしいぜ」
「へ、へえ、そう……」
 チヅルはやりづらそうに髪を指で巻きながら、リョウタから目を逸らすあまり明後日の方を見ながら喋った。
「こいつ持ってく?」
「ううん、いらない。シオリちゃんに本返しに来ただけだから」
「だってよ、リョウタ」
「おまえ『いらない』とか言うなよ。もっと言い方あるだろ」
「いらないものはいらないわよ。それじゃ」
「あっ、チヅル、ちょい」
 早々に場を離れようとしたチヅルは、他でもないリョウタに呼び止められたせいだろう、驚きをベースに喜びから悲しみまでありとあらゆる感情を混ぜ込んだ上に苛立ちをどんと乗せたような複雑怪奇な顔色になって振り向いた。
「何よ」
「ごめん」
 チヅルの頬がカッと赤くなった。
「あっ、あれは、嘘だって言ったでしょ! なんでもないのっ」
「嘘でも。おまえにあんな顔までさせて、ちゃんと謝んなきゃってずっと思ってた」
「リョウタ……」
「ごめんな」
「……ああもうっ、許すから! もうその話しないでよ!?」
「お、おお、了解」
 髪を翻してつかつかと去っていく後ろ姿は見飽きるほど何度も見てきたものと同じで、それを眺めるリョウタは首を絞められるような罪悪感とは正反対の晴れやかな気分になった。単純なようだが、これで一応元通りと思えば、忘れることはできなくても思い出すたびに苦痛を感じずに済みそうだった。
「許された……」
「ズルい野郎だぜ、全く」
「え、なにが」
「チヅルちゃんもかわいそうに」
「俺が悪かったのは分かってまぁす……」
 コウはふいっと顔を背けた。奇しくもその先にはシオリがいて、二人の視線に気づくとふんわり微笑んだ。次いで振り返ったアスカの訳知り顔にコウは苦笑いを返し、小さくため息を漏らす。
「あいつ、絶対なんか勘違いしてやがる……」
「まさか……」
「おまえじゃねえよ」
 思わずそちらを見てしまうリョウタに、アスカはからかうような目を素早く切り替えてにこりと笑った。コウに言わせれば営業スマイルだそうだが、美人に笑顔を見せられて悪い気はしない。
「あのな、リョウタ」
「うん?」
「おまえ、シオリが好きか?」
 今度は思わずコウを見つめた。コウは普段通りの仏頂面から顔色一つ変えず、じっとリョウタの目を見つめ返した。その真意が分からない。
「な、なんつー答えづらい質問をするかな時坂クン……」
「正直に言っていいぞ」
「正直も何も、嫌いなわけないし、なあ?」
 助けを求めるように目で縋ってみても、コウは頷くだけだった。
「アスカはどうだ?」
「美人が嫌いな男子なんていません」
「リオンとかハルナは?」
「心の底から応援してます」
「チヅルちゃんは」
「まあ嫌いじゃないけど……」
「じゃあ俺のことは?」
 その瞬間の動揺ときたら計り知れなかった。即答できずにいると、コウはくつくつと笑いだした。気づいた時にはもう遅い。
「やられた……」
「おまえ照れすぎだから」
「マジ誰かさんのせいで火が出そうだわ……」
「顔、真っ赤。一周回って可愛いぜ、リョウちゃん」
「それ一周回る必要ある?」
「三周くらいすれば良かったか?」
「なぜ増やす」
 コウは仕返しを果たして満足げである。リョウタは居たたまれなくなって机に伏せ、さらに両腕で顔を覆い隠した。コウはそばに頬杖をついて上から声をかけた。
「リョウタ」
「止めを刺すなら今がチャンス!」
「やっぱいいや」
「ごめん嘘」
 急いで顔を上げると、持ち前の反射神経でギリギリ避けたらしいコウの驚いた顔と目が合った。こうして見開くと両目がくるんと丸くなって愛らしい。
 リョウタの頭はコウの左手に受け止められるようなかたちで収まっていた。ゆっくり瞬きをしながらコウは手を離した。片手が前にあるせいで、少し招き猫みたいに見えた。やがて二人とも脱力して笑った。
「帰るか。うち寄ってくだろ」
「いい?」
「ヒカリヤの豆大福、一箱」
「マジか」
「買ってくれたら神社に持ってこうかなーと」
「自分で買え!」
 リョウタが先に教室を出ようとすると、コウは数歩遅れてついてきた。シオリとアスカに見送られ、学園を出て帰路につく。
 何とはなしに少し遠回りの道を選んで歩いた。傘を二つ並べる分、普段より離れて歩かなければいけないのをリョウタはもの寂しく感じた。そしてチヅルとしたように相合傘をするところを想像し、違和感に顔を歪めてすぐにやめた。散々妄想しては思い知らされた通り『彼女ができたらしたいこと』の全部をコウにしたいわけではないのである。昼休みの夢うつつに考えたのは、とりあえず今度二人だけで出かけてみよう、くらいのものだった。それくらいなら頷いてくれるだろうから。
 傘の陰に半分顔が隠れているコウは、唇を薄く開いて静かに話しかけた。なあ、とリョウタを呼ぶのは何の変哲もない様子だったが、雨音に紛れないよう、普段より少し張りのある声だった。
「さっき言おうと思ったんだけど」
「さっき?」
「あんまりシオリばっか気にすんなよ」
「……え、妬いてんの、もしかして」
「おまえほどじゃないけどな」
「俺のはやきもちじゃねえし……」
 リョウタが唇を尖らせると、コウの唇は緩やかに、甘やかな笑みに変わっていった。
「まあ、俺と付き合うにはあいつがオッケー出さなきゃダメらしいけど」
「やばい、無理そう。なんか上手いこと言っといてくれよ」
「俺が女だったらな」
「うーわ、まだ根に持ってる……」

 

 

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切っても切れない二人たち。

​2017/07/28

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