光り輝き、焼き焦がすもの
#+C #天狼×?? #天狼×十六夜 #R18
祈りを捧げ、明かりを灯す。
固くこわばっていた庵が、肩の力を抜くようにふっと緩む。小さな炎の熱を頬に受け、庵の主は長く息を吐いた。そのまま床にゴロンと寝転がり、窓の外を眺めた。
厚い雲に覆われた暗い夜だ。こんな夜は祈りを重ねたくなるが、あまり図々しいのも良くない。遠くで誰かも小さな火を灯して、暖かく休んでいることを願うに止める。
今頃は何処にいるだろうか。旅に出るとは聞いていたが、彼の目的は場所ではないので、何処までも行くのだろうとは思っていた。何処かの里へ厄介になっているかもしれないし、自分と同じように山奥へ入り込んでいるのかもしれない。いずれにせよ、彼のことだから何も心配いらないはずなのに、なんとなく、大丈夫かな、と心配してみたくなる心地だった。
のそりと起き上がって窓を閉めた。明るい内はこんなに靄がかかった心持ちではなかったのだが。手近な本の山を隅に押し退け、崩れかけるのも構わず、もう眠ろうと毛布を手繰り寄せたときだった。誰かが庵の戸を叩いた。
主はどきりとして、扉を見つめた。わざわざ人里から離れ、山奥に隠れ棲む世捨て人を訪ねて来る人間はまずいない。だが、彼がはじめて訪れた時もそうだった。黄昏の名残も薄れた暗闇の中、庵と主を見つけた彼の――彼と、あのときのすべてを、また思い出す。
音をさせないように立ち上がっても歩けば床が軋んで呻いた。主は恐る恐る扉を開けた。星のない夜を照らすような、背の高い光がそこに立っていた。
「よっ」
天狼は、にかっと笑ってみせた。
「元気だった?」
「こっちの台詞だよ、まったく……」
再会の抱擁を受け入れ、主は天狼の背を撫でた。知らない土のにおいがする体は、以前よりひとまわり成長して逞しくなったようだ。
「君、また大きくなってる」
「そう? 自分じゃあんまり分かんねーや。おまえは相変わらずだなぁ。ほっそいまんまで」
天狼は髪をひらひらなびかせながら庵へ踏み入った。
「あー、あー……いいな、やっぱり」
「何が?」
「帰ってきたー、って感じする」
庵は彼を思い出すなり速やかに受け入れていた。旅人故のちょっぴりの気まずさはもう感じないのだろう。彼は無意識にやっているが、周囲に自分の輪郭を組み込ませるのが天才的に上手い。
ぐるりと一周して中を見渡した天狼は、主の手を握って笑いかけた。
「十六夜」と、そう呼ぶのは彼だけだ。
「ちゃんと帰ってきたろ」
「帰ってきたって言うのかな」
「ご褒美ちょーだいな」
「そんな話だった?」
「うん、めっちゃほしー」
仕方なく主は天狼の頭を撫でた。天狼は嬉しそうにするが満足には程遠い。次は抱きしめた。もう一声、と天狼がじゃれつく。その肩に手をかけて背伸びをした。慣れた感覚では僅かに届かず、肩を借りて伸び上がるようになりながら危なっかしく接吻した。天狼は見開いた目をきらきらさせた。
「俺、背ぇ伸びたな!」
「だからさっきそう言ったよ」
「えへん。やったぜ」
笑う天狼を見ながら、主はさりげなく鳩尾を押さえた。ほんの少しだが息苦しかった。しびれるように火照る心は、彼がそういう光だから仕方なく、きっと、なるようになっているのだった。
白銀の河の如く流れる髪の上に、朝陽のかけらが散らばって黄金色にきらめく、この景色にずっと恋していた。
先に目覚めた主は、分厚い毛布の中からそれを眺めた。次第にかけらが集まって柔らかくまとまり、明るめられる庵の中央で天狼は眠っていた。ふさふさの毛皮に包まっているので、呼吸のたび、かすかにふくらんだりしぼんだりする様が大きな獣のようである。
主は静かに立ち、櫛を持って戻り、天狼の頭のそばに座った。彼の髪は指にすくうと掌へ滑り落ちてきた。
徐々に温まってゆく庵の中心で、むずがゆいほど穏やかな時間が流れていた。いつだったか、こうしている時間を、夢にも見なかった、と思った。誰とも交わらず一人で終えるためにここへ来たのに、そうして一人でいることに何の不満もなかったのに、今、天狼がそばにいて満たされたような心地だった。
彼が本当のところ何を考えているのか主には分からない。彼の旅のことも、家族や仲間のことも、『十六夜』という人のことも、何もかもが断片的で不明瞭なままだが、主が根掘り葉掘り聞こうとせずのんきに構えたので、彼も殊更に話そうとはしなかった。と言うのも、尋ねたところで天狼は、知ってるくせにさ、と白々しがる素振りを隠さないものだから、毎度言い訳をするのも面倒になっていたし、彼の気分を害してまで知りたいことでもなかった。普通に会話をしていれば少しずつ入ってくる情報を自分でまとめ直せば良いだけの話である。
絡まりかけている髪を丁寧に解し、櫛を通した。するすると通った。
天狼は、庵の主を十六夜だと信じて疑わない。間違えるわけない、と言い切った。十六夜のことなら全部知っていると言ったし、それも大いに自信があるようだった。話によれば二人はそれなりに長い時間を近くで過ごしていたのだろうから、見栄や思い違いではなく、真実そうなのだろうと主は思っている。それから、それほど分かり合った仲ならば、今更分からないのは時々頭の中が曇って見えないくらいのものだろう、と思った。今がそうだと彼は思っているかもしれない、とも。
時間をかけたつもりだったが、一通り梳かしてしまっても天狼はまだ眠っていた。
日が昇ってしばらくしてから天狼は目覚めた。毛皮を脱いでうんと伸びをする肩から、さらりと髪が滑り落ちるのが、主の目を惹いた。
天狼は首を回してかすかに呻くような声を漏らした。
「すげー寝たわ……」
「疲れはとれた?」
「うん。やっぱ夜中の山登りは神経使ったな」
「朝まで待ってから来ればよかったのに」
「待ちきれなかった」
「どうして?」
「おまえが待ってねーから……」
天狼は不服そうに頬をふくらませて言った。謎かけのようなことを、と独り言ちる主に寄りかかってきた彼の髪から、まだ知らない土のにおいがした。
ほとんど無意識に伸ばした手をするりと絡めとった天狼は上目遣いに主を見た。
「そんな風に見つめられると、俺ちん緊張しちゃう」
彼の表情を見れば、自分がどんな目を向けたか間違えようがない。頬がじんわりと熱を持つ。
「めっずらしー。久しぶりだから?」
「別に。気が乗らないなら、いい」
「俺してもいーよ。その代わり……」
にじり寄る唇の奥から現れた舌先が、柔らかそうな薄皮の上をちろりと滑った。
「したいって言えよ」
主は首を横に振り、静かに彼の目を見つめた。
「……されたい」
そう口にした瞬間、天狼の体中でざわっと毛の逆立つ音が聞こえるようだった。赤い瞳に彼の名の通り強い光を宿し、口元は悦びを隠せず少し歪んだ笑みを形作る。
「そういうの好きだって教えてねーけど。さては浮気だな」
「してないよ。相手がいないだろ」
「……相手がいたらするって言い方じゃん、それ」
天狼は主に後ろを向かせ、座った足の間に抱き込んだ。主の髪紐を解くと、やっと胸元まで伸びた髪を片側に流し、ほっそりした項にちゅうと吸い付いた。同じところに幾度も重ね、終いには態々歯を当てて強く吸った。
生え際に近い高めの位置は普段髪を結うホクレアには隠しづらい場所である。まさしくそれが狙いなのであり、見せつけるためと思えば絶妙な位置と言えなくもなかった。そうして刻んだ独占欲の仕上がりに満足したらしく、天狼はふっと息を吹きかけ、主を身震いさせた。
「ま、いない俺が悪いから、おまえが誰と何しようと勝手なんだけどさ」
そう言うなり主の顎をすくって唇にキスした。左手の指を絡めてじゃれつきながら、口の中で舌先をぬるりと舐めた。そのまま深くまとわりついて交わろうとする。鼻にかかった小さな声が漏れた。天狼は右手を衣の上から滑らせ、鎖骨に沿わせて肩を撫でた。
唇を離す頃には体に火がついたように熱かった。呼吸が荒くなった主を自分に凭れさせ、天狼は主の帯を解いてしまうと、下穿きを押し上げているものをつついた。
「お、ビクッてした」
「急に触るから……ちょっ、やめて」
「反応いいじゃん。かわいい。もっと自信持ってほしい」
「何言ってんだよ」
ふふっ、と唇の端で天狼は笑った。膨らみを宥めるように優しく撫で回す。もう片方の指が、耳の下から肌をなぞっていく。体の芯を疼かせながら、指先は控えめながらピンと立った乳首に到達した。上も下も、そうっと周りを撫で、潰さないように先端を擦る淡い刺激にゾクゾクしながら、主は自分の体を制御できなくなっていくのを感じ取った。
「ん、んっ」
「はあ……なんか、エロい匂いしてきたんだけど……」
「知らないよ……っ」
上擦る声が恥ずかしくて主は顔を伏せた。指がくりくりと捏ねる動きに変わった。思わず腰を反らせると、その隙に下穿きを脱がされて露わになった興奮のかたちが震えた。
「あ……ぁ……」
「だいじょーぶ。かわいい、かわいい」
天狼はそこへ手を添えて扱き始めた。長く節ばった指に包まれて擦られる。自分の手と違う感覚、他でもない彼にされているという事実にまたどうしようもなく疼いて堪らず蜜が溢れ出した。ずるずる滑り落ちるようになりながら、主は身を捩って天狼の腕に縋った。
「て、天狼……もうだめ」
「早えーな。どしたん」
「うるさいよ……」
「ふうん、黙って責任とれってこと?」
胸を弄っていた手が、濡れた先端を柔らかく包みこんだ。主は呼吸を引きつらせた。速度を上げて扱きあげる手に反応して体が跳ねるたび、一番敏感なところを掌に擦り付けてしまう。
「くっ、ん……だめ……」
「文句ばっか」
「あくっ、うぁっ、ぁあ……!」
体を縮こめて堪えた奔流は首筋をゆっくり舐め上げられるとあえなく決壊した。天狼はぐったりする主をそっと横たえ、足を開かせた間に座り直した。ぬるつく指のまま、きつく閉じた蕾にまで垂れた蜜を塗りこむように撫でた。刺激に怯えて更に閉じていくそこへ少しずつ力を加えていく。
「ちょっと足持っといて」
「えっ、やだ、まって」
「おまえを待ってたら日が暮れる」
指はついに抵抗をすりぬけて侵入してきた。主の体にぞわっと鳥肌が立つ。天狼は小首を傾げながら指を動かし、小さく円を描くようにくるくると撫でた。
「やっぱ固くなってるよなぁコレ……ちょっときちーだろ」
「んっ、う……」
「ちゃんと体に思い出さしてやるからな」
「こわいこと言わないで……」
天狼はにっこり笑ってみせ、丁寧に主の中を解した。指を増やしながら押し拡げるようなその動きを、確かに体は覚えていた。内側に指を擦りつけられてじわりと溶けそうになる感覚も、その後にやってくる彼自身の大きさと硬さも、全て迎える準備をしながら徐々に腰が浮いていく。
「おまえの好きなやつ、どんなんだっけ……こう?」
「んんぅっ!」
「ここかぁ」
「あぁ、やぁん……」
「後ろばっかじゃ前が寂しいよな」
「あっあ、だめ……一緒に、しない、っ」
中をかき回す間隔に合わせて、再び勃起したそれを優しく摩られる。今度は追い詰めないように手加減されているおかげで、却ってがくがくと全身が震えるほどの快感に襲われた。
「もうグッチャグチャだぜ。やらしーの」
「なんっでそういうこと言うかなぁ!」
「俺ちん素直だから」
指の動きが変わった。外れないギリギリまで抜き出し、ひと呼吸置いてから挿しこむ前後の揺さぶり。それをゆったり繰り返される内に、体は本能に押されるまま彼に甘えた。引き始めると抜かないでと縋り、抜けたら抜けたで早く挿れてと吸いついてしまう。あまりにも普段の思考とかけ離れすぎて、いやらしくて恥ずかしい、けれど抑えられない。
「天狼ぉ……」
「んー」
天狼は主の求めに応じて顔を近づけた。そうして彼の長い髪が肌の上を滑る感触にさえ痺れるような疼きを感じた。更に奥まで挿れられた状態で口づけられ、主は自分が彼の指を精一杯締めつけている理由を理解せざるを得なかった。追い出すためよりは捕まえるためだと。もはやそこにとって彼は異物でもなんでもなく、求めて愛しく受け入れるべきものなのだ。それは天狼にも伝わっているようで、彼は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「もう大丈夫そうだな」
「うん……」
主は手を伸ばした。天狼はその手をするりと絡めとり、指を抜いて主を起こした。
「なんか俺がやったらダメにしそう……おまえが挿れて」
「君のは、しなくていいの」
「そんなん後でいい」
天狼は自ら帯を解き、衣を脱ぎ捨てて主を抱き寄せた。主が触れてみると、脈打つそれの熱が指先から体の奥まで伝わったように錯覚した。座っている彼に跨り、小さな口をとろんと開けて待っている蕾に熱い芯を押し当てた。ゾクッと体が震えた。
天狼が唇を舐めた。主は深呼吸し、意を決して腰を下ろした。痛みを感じたのは一瞬だけだった。一息に飲み込んだ彼の圧迫感に、驚くほど従順に馴染んでいく。
「あっ、あ……はいった……」
「苦しくない?」
「へいき……」
震える手で天狼を抱きしめた。中もまるで抱きつくようにきゅうっと締まり、内側をみっちり埋め尽くす彼の熱塊に押し返されて喜んでいた。自然と腰が動き、指で慣らされたところよりも奥が擦れて頭の裏側がじんじん痺れた。
「はぅ……ん……ぁん……」
「っ……中とろとろじゃんか……」
天狼は主の体を仰け反らせるように傾けると、中を軽く叩くように突いた。小刻みの律動が脳天まで響いて内側からとろけ出す。
「ふあっ、あっ、あっ……!」
「んっ……声、おっきくなった。はは、こーやって突っつくの、好きだよなー?」
「あ、はぁっ……天狼、もっと……」
「もっと、何?」
「こっちにきて……抱きしめて……」
天狼の体に走った震えが肌を伝わったと思うと、次の瞬間には熱い腕の中へしっかりと抱きすくめられ、主は喜びを露わに微笑んだ。
彼に満たされるよりも深く、彼に触れることによって自分の輪郭を確かめられてしまうような気がしていた。それを不快にも思わないことは、やっぱりだめだったじゃないか、と泣いてしまいそうなほど苛立たしいもどかしさを含んだ、自身への晴れやかな諦めだった。そして、今まで誰をも求めず、誰にも求められないように一人で息をひそめていたのは、何よりも彼に見つからないための悪あがきだったのだと、そう思った。
ようやく気が済んで後始末を終えた途端、腹の虫二匹がそろって露骨に不満を訴えたので、この日初めての食事をとった。雑穀を潰し練って焼いたパンとも餅ともつかない大きな団子状のものと炙った干し魚は主には慣れた献立だが、天狼はどこか悲しそうな面持ちでそれを眺めた。
「おまえそーやって肉食わないから細いんだって、前にも言ったろ……」
主は黙って団子をちぎり、口に運んだ。いったん慣れれば癖になるような複雑な味と食感である。
「狩りはやめたのか? ウサギとかは?」
「やってみたけどこの辺りのは警戒心が強くて、あんまり罠にかからないんだ」
「それなら直接こう、やっちゃえばさ……」
「……魚も悪くないだろ」
つまり主の刃はそれほど鋭くないのである。察した天狼はおどけて涙を拭うような仕草をした。
「ううっ、冬んなったら俺ちんがイノシシ獲ってきてやるからな……!」
「冬になったらって、君いつまでいるつもりなのさ」
「ずっと」
「え?」
「ずっといる」
主はぽかんとする。彼にも役目と立場があるだろうに、こんなところにずっといて良いわけがない。しかし天狼は、言われる前から言っても聞かない顔をして、得意げに胸を張った。
「俺ちん気づいてしまったのだよ。おまえがここにいるんだから、俺もここにいればいいんだって」
「良くないよ、だめだよ」
「なんでやねん?」
「なん……やねんってなに」
「おもしれーだろ」
「面白いとかじゃなくて……旅はどうするのさ。ソードマスターは」
「いやー、俺の仕事はおまえのお目付け役のまんまでさ、ホントは一人旅とかしてる場合じゃなかったんだよなー。ここにいるのも大巫女様にお報せしなきゃなんね―んだわ。まだ何も言ってねーけど」
天狼は困惑している主を見て可笑しそうに吹き出し、魚の身を裂いて口にくわえた。
「そんな顔しなくたって、コッソリ告げ口とかしねーよ。だって十六夜じゃねーんだもんな?」
片方の眉を少し上げた思わせぶりな笑い方は、明け透けな天狼らしくなかった。まるで主をからかっているようだ。
「名前、いい加減教えてくれたっていいと思うんだけど」
「ないんだって」
「じゃあ、今日からジョンとかって名乗るか?」
「なんで石の都の名前にするんだよ」
「下の村のやつらが覚えやすいと思って。山入る前に通ったけどさ、あいつら結構おまえのこと好きだな。ちゃんと人助けしてんだ?」
主は露骨に顔をしかめた。偶に村へ下りているのは決して人助けのつもりではなかった。山奥とはいえアゼルプラード人の村の近くへ勝手に住み着いたことを黙認してもらうために最低限必要な労働に留めていたはずなので、好意的に取られていることは少し不本意だった。天狼はそれには構わず、団子にかじりついた。
「ちょっと田舎すぎたのかもなぁ」
「どういう意味?」
「もっと街っぽい場所なら、おまえの狙い通りになっただろーけど」
天狼は不思議な笑みを浮かべたまま、目を伏せて話を続けた。
「これでもずっと考えてたんだぜ。おまえが『名前がない』なんて変な嘘ついたのは、なんでだろうって。一人になりたいならなればいいし、十六夜じゃないってだけなら適当な名前で誤魔化せばいいのに、そうしなかったのは……嘘じゃなかったからだな。おまえの償いは一人ぼっちになることじゃなくて、名前をなくすことだった。授かった祝福の星をなくして、精霊と巫に護られるものじゃなくなって……おまえが穢しかけたホクレアの誇りに償うために、おまえはホクレアじゃなくなったんだ、自分から。……確かにそれなら名前を持ってちゃいけねーよな。名乗れるわけがない」
主は頷きも首振りもせず、まるで何事もなかったかのように平然と団子をちぎって食べた。
「ま、本当は死にたいくらいだったのかもしんねーけど、生きててくれてホント良かったっつーか……死んで終わりにするんじゃ無責任だって思うようなやつだもんな。おまえは賢いから。でも、名前もない、友達もいない、そんな風に一人でいたらそのうち誰もおまえのことが分からなくなる。誰にも知られなくなったら、もういないのと同じだ。で、ああそれが狙いだったのか、って」
そこまで言って、天狼は深々とため息をついた。
「分かったの三日前でさー。それから急いで帰ってきたんだぜ」
「……なんでだよ」
主は団子を食べ終えて魚の身を裂きながら尋ねた。凪のような微笑すら浮かぶ表情はそのままだった。
「もし君の話の通りなら、十六夜は一人で消えようとしてるんだろ。君がそばにいたら困るじゃないか」
「ああ、困るだろーな。俺がおまえを『十六夜』にするから」
「だからぼくは十六夜じゃ……」
「建前ならあるぜ。俺は戦士で、戦士は仲間を守るためにいるもんだ。俺がおまえを守るのは筋が通ってる」
「ぼくは君の仲間じゃない。守られる理由がないよ」
「仲間かどうか決めるのは俺だし、好きなんだから守りたいのはトーゼンだろ」
「十六夜を、だろ。大体どうしてそんなに十六夜が好きなんだ」
「好きだから」
眉一つ動かさずに主は魚の身を口へ運んだ。天狼は団子をかじりながら主が次に何を言うか待っていた。じっとりとまとわりつくように重みを増す空気の中で二人とも笑顔でいるのは、傍から見れば恐ろしいほど奇妙な光景に違いない、と思いながら主は魚を飲み込み、口を開いた。
「……何度も言うけど、ぼくは十六夜じゃない。名前はないんだ。君が言った通りの理由だろうがそうじゃなかろうが、結局名前はないんだから、十六夜じゃないんだよ」
天狼は団子を頬張り、もぐもぐと口を動かしながら、じっと主を見据えた。主は自分の言ったことが苦しい言い訳以外の何ものでもないような気がしてきていた。天狼はやがてそのまま首を傾げ、ゆっくりと元に戻してから飲み込んだ。
「……おまえがそうやってホクレアの、『七ツ天原の十六夜』を殺したつもりでいるなら、それでもいいよ。俺の十六夜はここにいる」
主は再びぽかんとする。天狼は再び胸を張り、ふふんと鼻先で笑った。
「こう来るとは思わなかったろ」
「驚いた……急に小賢しいこと言ったと思ったら、そんな決め台詞があったとは」
「王府で鍛えられちまったからな」
天狼は残っている魚をまるごと口に放り込んだ。尾鰭を噛み砕くぱりぱり軽い音が聞こえた。
「ま、おまえが名無しだって言い張るのも勝手なら、俺が適当に名前つけて呼ぶのも勝手だろ」
「それは……まあ、そうだけど」
「だったら、おまえが何を言ったって、俺にとっての十六夜はおまえだ。俺がおまえを間違えるわけねーし」
「……それじゃ意味ないじゃないか……」
主の笑みから力が抜けた。事実上の敗北宣言だった。天狼は言いたいことを言って満足したのか、それ以上は何も言わず、主が八つ当たりじみた文句を言うのをうんうん頷きながら聞いていた。じきに「本当に聞いてるのか」と呆れられたことは言うまでもない。
笑う天狼を見ながら、主はさりげなく鳩尾を押さえた。ほんの少しだが息苦しかった。しびれるように火照る心は、彼がそういう光だから仕方なく、きっと、なるようになっているのだった。
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てんいざの日2016→2017
2017/02/01