口の中に愛があるとして
#+C #天狼×十六夜 #現パロ #氷食症
噛み砕いた氷が口の中でしぼんで水に変わる。それを飲み込み、十六夜は長く息を吐いた。体は洗い流したはずなのに、どこかしらへ触れられる感触がまだ残っているようで落ち着かなかった。舌が冷えるまで氷を噛んでも鎮められない熾火が皮膚の下に居座っているようだ。
シャワーの水音に混じって天狼の鼻歌が聞こえていた。流行りのロックバンドの新曲だとわかるまで少し時間がかかった。上機嫌なそのメロディーを聞きながら、確かに風呂場が広いのは良いな、と思った。ベッドが適度に柔らかいのも良い。一見そういうホテルとは思えない落ち着いた外観と内装も好みだった。ふと、先の行為で皺が寄ったままのシーツが目についた。いやに生々しく感じて手で少し伸ばした。やがて鼻歌が止み、水の音も止んだ。
少し経って、天狼は間延びした声で十六夜を呼んだ。行ってみると、天狼は上半身裸のまま頭にタオルを被って立っていた。
「どうかした?」
天狼はにっこり笑うなり、十六夜の腕を引き寄せて唇にキスした。不意をつかれた十六夜は、されるがままに口づけを許した。湯上がりの唇は普段よりふっくらと柔らかな感触だった。その間からぬるりと滑り込んできた舌が体の中の火を煽る。
「……ふぁれ、また氷食ってた? 口ん中ひんやりしてる……」
十六夜が頷くと、天狼は「そっかぁ」と囁くように言った。その吐息が鼻先に触れる感覚にすら耐えられず身じろぐ十六夜を、見ているだけでくすぐったくなるようなふわふわした目で眺めていた。
「んー、なんか……ふふ、なんだろな……」
「なんだよ、気味悪い……」
天狼は舌をちらりと出してみせた。
「もっかいしたくなってきた」
「えぇ……」
「あー、嫌そうな顔した。傷つくわー」
台詞の割には笑顔を崩さずに天狼はまたキスをした。タオルを置いて、腕の中へ包み込むように抱いた。十六夜は、甘えるように唇を食んでくる天狼の腕に触れた。しっとりとして熱い肌の感触にどうしてか胸の奥が震えた。まるで火傷を負ったように、じわりじわりと痺れに変わり、疼きだした。
「言うほど嫌でもないんだろ」と、天狼は十六夜の体の中を見透かしたように目を細めた。
十六夜は顔をそらしても覗き込む天狼から逃げるように、曖昧に俯いた。嫌と言っても嘘ではないし、嫌でないと言えばそれも嘘ではないのである。それ以上否定も肯定もしない十六夜の左の手の甲を天狼がするりと撫でた。びくっとして引きかけた手を追って、長い指で絡めとる。
天狼は親指だけ中へ潜り込ませ、器用に手のひらをくすぐった。二つの手の間で窮屈そうな様子もなく、指の付け根をつうっと舐めるように撫でた。ぞくり、とまた疼く熱を紛らわそうとして十六夜は静かに息を吐き出した。それもまた見透かしたように、天狼は唇の端に笑みを浮かべた。
「また、ダメって言う?」
十六夜はちらりと目を上げて、すぐにまた伏せた。
「どうせ言ってもするんだろ……」
「だってもう全然嫌って顔してねえもん。なんでこういうときだけ素直じゃなくなんの?」
「僕にもプライドとか色々あるんだよ」
そんなものは言い訳に便利なただの単語でしかないのだが。天狼は「色々ねえ」と呟いた。
「俺ちんのことキライ?」
「そういうのは、ずるい」
「これくらいシンプルでいいんだって。なあ、答えろよ」
天狼の親指が十六夜の親指に擦り寄った。小首を傾げて答えを促す赤い瞳は期待が満ちてきらきらしている。十六夜はまた、ちらりと目を上げた。
「好きだよ」
「よかった。本気のやつだ」
「君に嘘や冗談で好きって言ったことないんですけど」
「へへ、知ってるー」
天狼はにやにやと嬉しそうである。十六夜を抱き寄せて頬に唇を触れた。
十六夜は天狼の背に腕を回し、もう一度彼を受け入れることにした。仕方ない、と思わずにいられない言い訳がましさには溜息が出そうだ。求められるから仕方ない、なんて。焦れているのは自分の方だと分かっている。気のないふりをして求めさせて、ふりだと気付いているならもっと強引に迫ってくれればいいのに、と言いたくないから甘えているだけなのだった。
熱っぽいキスを交わしながら、指先にかすめる髪が濡れたまま冷たくなってゆく。
特に代わり映えのしない数日が過ぎ、秋と冬の間の金曜に季節外れの真夏日が訪れた。風は涼しく汗は出ないが、内にこもるような熱がなんとも不快だった。そのせいなのか何なのか繁忙期でもないのにずるずると業務に追われ、十六夜は遅めに昼休憩をとって休憩室へ向かった。一口に休憩室とは言っても、その実態はフロアの半分以上を使い、窓を大きく取り開放感にあふれ、時流に乗って分煙も完璧という、オフィスビルの一角というよりはむしろ新しめの学生食堂の様相である。
十六夜は休憩室の入り口で天狼に出会した。
「あれ、お疲れ様。今日は戻ってこないんじゃなかったっけ」
「おつかれー。時間空いたから戻ってきたー……」
天狼は珍しく疲れた様子で、首を横に振りながら席についた。横からの日差しが顔に影を差して不穏な雰囲気に見えた。十六夜が向かい側に座ると、白いレジ袋に手を突っ込んだまま深い溜め息を吐き出した。
「どうしたの」
「なんかさー……午後の商談二件あったじゃん? 一件先方の都合でリスケになってて? その連絡が先輩のとこで止まってて? 俺それ聞いたのさっきで? 的な」
「ああ、それは大変だったね……」
「今朝までかかって準備したのにあのヤロー、『ん〜メール送信エラーになってたわーゴメンゴメン、まあでも、営業あるあるだよね〜』……だってさ!」
「今のすごい似てる」
「だろ。何が『あるあるだよね〜』だ。何度目だ、うっかりさんめ。もうメシでも食わなきゃやってらんねー。いただきます!」
ばちんと手を合わせ、天狼はコンビニのおにぎりの封を切った。具は紅鮭だ。大きくかぶりついた天狼を見て、十六夜はくすりと笑った。
「営業さんはいつも大変だね」
天狼はもぐもぐと口を動かしながら何度も頷いた。
「んっ、ん」
「それでも毎日やってるんだから、偉いと思うよ。心が広い」
「ん……もっと褒めて」
「かっこいい。超イケメン」
「えー、もー、いっつもそれしか言わねー」
天狼は呆れた言い草とは裏腹に、にやけた嬉しそうな顔になっていた。そういうところは可愛い、と十六夜はひそかに思った。彼の素直さは時にまぶしいほどだ。つられて微笑みながら、昼食に買っておいたサンドイッチの角をかじった。
「……また洒落たもん食ってんな」
「洒落てるかな? そこのコンビニのサンドイッチだよ」
「ちょっと高いやつじゃん。パンが茶色で四角いやつ……中身なんにした?」
「エビとブロッコリー」
「女子かよ」
天狼は紅鮭おにぎりを瞬く間に胃に収め、二つ目に手を付けた。焼き鮭ハラスのおにぎりである。
「そっちは今何つくってんの?」
「例のうっかりさんが先月取ってきてくれたやつ」
「なんだっけ……ああ、あの、椅子の人の仕事か」
「椅子の人?」
「なんか椅子へのこだわりが異様って聞いた。もしかしてやばそう? 注文キツイとか?」
「ううん、今のところ順調」
「そんなら良いけど……」
天狼は焼き鮭ハラスおにぎりも瞬殺した。最後に取り出したのは、包装に期間限定と書かれたはらこめしおにぎりだった。つい目で追う十六夜が、全部鮭だ、と思っていることには気付かない様子で、にっと笑った。
「会社でこんな話せるの久しぶりじゃね?」
「そうかも」
「うん。元気でた!」
「良かったね」
十六夜はサンドイッチを平らげ、コーヒーに口をつけた。山盛りのクラッシュアイスに濃いコーヒーを注いだアイスコーヒーは、所詮自販機と馬鹿にできないほどまともな味がするらしい。らしい、というのは十六夜が自分の舌を過信していないことの表れだ。氷に邪魔されてちびちび飲んでいるうちに天狼も食事を終え、ペットボトルのお茶を飲み干した。
「なあ」とやや唐突な勢いで天狼は話しかけてきて、その続きを言わないまま、テーブルになんとなく置かれていた十六夜の手を握った。十六夜は眉をひそめて手を引く。
「やめろよ、こんなとこで」
「だってもう全然人いねーよ」
「いる! 後ろ!」
「後ろ? ……遠いじゃん。平気、平気」
十六夜は眉間の皺を深くした。三時過ぎにもなれば人はまばらだが、一番近いところで天狼の背後の空きテーブルをひとつ挟んだ向こうのテーブルに四人いる。そこから二つ隣には二人。恐々とする十六夜がおかしいのか、天狼の唇の端が歪んでいた。
天狼はテーブルに十六夜の手を置きなおし、中指の先同士をちょんと触れた。そこからするりと指の背を這い、甲を掌で覆いながら薄い楕円の手首をゆるく握った。十六夜が目で抗議しても構わず、指先で軽やかに鍵盤を弾くような仕草をした。
「あのさ、こないだ行ったとこ、結構良かったよな」
「こないだ? どこの話?」
「あっちの、駅の反対側の通りのホテル……」
天狼は平然と窓の外を指差しながら言ったが、十六夜は危うくむせ返るところだった。
「……の近くのカフェ。肉料理美味かったよなぁ。今日行く?」
「え? 今日?」
「今日。行けそう?」
「行けると思うけど……」
「……そのあとまたホテル連れ込まれるとか思ってる?」
十六夜がむっとして口をつぐむと、天狼はニヤッとした。
「大丈夫だって。これくらい聞こえねーよ」
「だからって、会社でそういうことを」
「今日は家がいいな。おまえんち行きたい」
天狼の指が動く。肌を震わせる優しい振動がくすぐったい。十六夜は自分の口の中がやけに熱いような気がし始めた。冷たいコーヒーを飲んだ。もう水面が底まで来て、味は良く分からない。代わりになだれ込んでくる氷を口に含んだ。元から細かく割られたものが溶けて小さくなった氷は、噛んでもみぞれのように水っぽかった。
天狼はそのまま返事を待っていた。それ以外にも何かを考えているような、比較的落ち着いた顔色だった。十六夜が誘いを受けると、瞳に鮮やかな光が翻った。それから嬉しそうに笑みを浮かべた。
十六夜は微笑んでみせながら、仕方ない、とまた思ってしまう自分に溜息が出そうだった。今のは、誘われたから仕方ない。誘われなかったらそのときは、誘われなかったから仕方ない、とでも思うのだろう。天狼がほんの少し匂わすようなことを言うだけで火がつく体の中だけが素直で、平和ぶった建前は言い訳がましくも全てを彼のせいにしていたいのだ。
「君ってかっこいいね……」
自分の手で天狼の手を覆い、動きを封じながら十六夜は呟いた。
「ん? マジで?」
「うん」
「おお……どうした、急に」
寝そべっていた天狼が体を起こす。十六夜はその横で仰向けに寝たまま、静かな笑みを湛えて首を振った。口の中が熱い。天狼に触れていると余計に熱くなっていくようだ。その天狼は腑に落ちない様子で瞬きをした。
「氷食いたいって顔だな」
「うん」
「……もう一回する?」
十六夜は黙りこくった。指摘は図星であり、視線は皮膚をくすぐるようなむずがゆさだった。しかし、彼の指に、体に、唇に、たとえ何かに許されなくてもまだ触れていたいと十六夜は思い、それ以上に望んでいることが奥にあることも分かっていた。考えれば考えるほど口の中が熱くなった。
「……いいよ」
「え、今のどっち?」
「しなくていい」
「嘘だろ」
「嘘だよ」
「もー、何? どうしちゃったんだよ。なんか今日変だぞ」
「別に変じゃないよ……」
十六夜はふいと目をそらした。普段なら気にも留めないような罪悪感が積み上がって崩壊するタイミングが事後の気だるさに偶然重なって、居たたまれなくなっただけだ。それに関して天狼に責任を追及するのは筋が違う。
視線を戻すと天狼は片眉を上げて訝しげに十六夜を見ていた。
「かっこいいね……」
「ん……褒めてくれんのは嬉しいけど……」
「そんな顔してる」
天狼はやりづらそうに首を傾けて頭をかいた。その頬の温度、首筋の滑らかさ、さらりと肩を流れおちる髪の毛の柔らかさが、まるで今まさに手に触れているかのようにわかる――それだけ体に染み付いているのだ。
「天狼」
その体を手繰り寄せて抱きしめた。天狼は見当違いに「よしよし」と言いながら背中を優しく撫でた。十六夜は燻る火に風が吹き込んだように錯覚した。頭の裏側で獣の本性が彼を欲しくてたまらないと喚いているのを涼しい顔で抑え込む自己矛盾に息苦しさを感じ、彼の手が触れる背筋に痺れるような震えを感じながらゆっくりと息を吐き出した。
君をこんな目で見たくなかったな、とは声に出せず、十六夜は目を伏せた。今すぐに氷が食べたい。
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てんいざの日2019
BGM:クチビル・ディテクティヴ(Base Ball Bear)
2019/10/16