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​庵の主

​#+C #天狼×?? #天狼×十六夜

 黄昏、庵の主は蝋燭を灯した。人里離れた山奥で、日中は息を殺して佇む庵が、主の手によって安堵し、暖かな光を漏らす。主は床に座り、大振りな書物を膝に抱えて読み始めた。一見書庫かとも疑えるほど、多くの書物がところ狭しと積まれている。その奥へ埋もれるようにして読書に没頭することは、さびれた庵に一人きりで暮らす彼には欠かせない楽しみの一つである。
 しかし、このささやかな娯楽は、誰かが戸を叩く音で遮られた。
 訝しみつつ戸を開けると、来訪者は、庵の主が初めて見る青年だった。木蔭に紛れそうな褐色の肌と、鋭い光を放つ紅い瞳が、主と少なくとも同じ種族であることを表している。滑らかな白銀の髪は主のそれより長く、彼はそれを一つに結い、腰元まで流していた。
 青年は、庵の主を認めた途端眉尻を下げ、薄らと唇を開いて声を漏らし、氷面のごとく強張っていた表情をあどけなく崩壊させた。そして、十六夜、と叫んだかと思うと、堪えきれない様子で抱きついた。
「十六夜、十六夜……やっと見つけた。こんなところで何してんだよ、探しちゃっただろ」
 主は言葉を失っていた。突然の抱擁に驚き、青年が愛しい人にするように頬擦りまでしてくるので更に困惑した。あまつさえ接吻を迫る青年を慌てて押しのけ、ようやく、君、と呼びかけた。
「君、ちょっと待って。人違いだ」
「嘘つけ」
「落ち着いてよく見てくれ」
「……十六夜だろ、どっからどう見ても」
「人違いだ」
「俺がおまえを間違えるわけねーじゃん」
 押し問答の末、主は青年を庵に迎え入れた。灯りのそばで見たら人違いを認めるかもしれないと期待してのことだ。元々狭い上にごちゃついた雰囲気の庵は、二人を腹に収めて少し気を遣ったのか、主が書物を除けて座る空間を作ると、隣の山の陰に草臥れた座布団を二枚覗かせた。
 青年は七ツ天原の天狼と名乗った。
「天狼。良い名だね。勇ましく光り輝き、焼き焦がすものだ」
 天狼は、白々しいと言わんばかりに主を睨んだ。主の思惑に反して、考えを改める気はないようだった。
「なあ、十六夜」
「違います」
「それじゃ、なんて名前」
「ぼくに名前はない」
「おまえもホクレアならちゃんと持ってるだろ、空にあって輝くものの名前。つけてもらっただろ」
「まあ、あるかもしれないけど、少なくともぼくは知らない」
「どんな設定だよ。奴隷でもないのに自分の名前も知らねーやつがいるもんか」
 天狼は胡散臭そうに片眉を吊り上げて詰め寄り、主はばつが悪くなって俯いた。
「俺はごまかせねーぞ。おまえの顔も、体も、においも、声も、喋り方も、そういう仕草も、何もかも絶対に十六夜だ」
「待って、怖い。君が何を知ってるって言うんだ」
「全部」
 臆面もなく言うからには、彼は本当に十六夜の全てを知っているのかもしれない、と主は思ったが、だからといって彼の主張に折れはしなかった。結果、困った顔で天狼から目を逸らすことになった。
「なんで引いてんだよ」
「今のは十六夜でも引くところだと思う」
「往生際が悪ィぞ。何度でも言うけど、おまえが十六夜じゃなかったら誰が十六夜なんだよ」
「だから、ぼくは十六夜じゃないって。ただの、この庵の主だよ」
 やはり天狼は納得せず、でも十六夜じゃん、と聞こえよがしにぼやく。
「そんなことじゃ諦めねーかんな。おまえが十六夜だって認めるまで、ここに居座ってやる」
「ああ、いいよ。ずっと一人だからさすがに寂しくて。話し相手がほしかったんだ」
 天狼は呆気に取られた。彼の中にある十六夜像と目の前にいる庵の主に乖離が生じたのだ。
「……ちょっとだけ不安になってきたからホントにいくらでも居座るぜ、マジで」
「歓迎するよ。狭いところだけど自由にくつろいで、まずは君の話を聞かせて。どうしてここへ辿りついたのか……」


 庵に確たる寝所はなく、主は分厚く重い毛布に包まって床で眠る。天狼も隣に、自分の荷物からふさふさした毛皮を引っ張り出して寝転がった。
 天狼は、武者修行の旅をしているのだと語った。大陸一の剣の使い手――彼は『ソードマスター』と称した――を目指して各地を渡りながら十六夜を探していたと。
「こっから十六夜の話するけど、俺はおまえがマジで十六夜だと思ってるから、口が軽いとか全然違うからな。おまえが十六夜じゃなきゃ死んでも言わねー話だかんな。そこ間違えんなよ」
 真剣にうなずく庵の主に、天狼はやりづらそうに頭を掻いて話を続けた。
「十六夜は、優しくて、マジメで、俺よか全然アタマいい。けど、優しすぎんのかもしんない。悪いやつに騙されて、まあ大変なことになってさ。まだホクレアと石の都がすっげー仲悪かった頃。ちょっと無罪放免ってわけにはいかなかった。……そのあと、石の都と仲良くなり始めたくらいに、あいつ大巫女様のお供にしてもらったことがあって、その間、俺が一応見張りってことでくっついてた。俺は、大巫女様がそれで十六夜を許すもんだと思ってて。無事に役目が終わって、さあ心置きなく一緒に遊べるぞーって会いに行ったら、十六夜のやつ『もう思い残すことはない』って置き手紙していなくなってた……もう、マジかよ、って。ありえねーよな、すげー腹立ったし、めちゃくちゃへこんだぜ」
「それで彼を探してるんだ」
「当然。思い残すことねーわけねーもん。ぜってー逃げただけだ」
「何から?」
「……罪悪感とか、かな」
 天狼は寝返りを打って主に背を向けた。
「俺は……十六夜をよく知ってるから大抵のことは許せるけど、そうじゃないやつもさ、いるじゃん」
「うん、そうだろうね」
「あいつ多分そういうのがダメで……誰がなんて言ってるとかじゃなくて、そういうやつがいるってだけで、自分で自分を許せなくなってるんだと思う。そんで、償いのつもりでこういう山奥とかに引きこもってんだ、多分。だから……ここさ、ふもとに村あるじゃん。そこのちっこいのが教えてくれた。おまえのこと」
「たまに遊んであげる子かな」
「それかも。そいつの名前聞いてないけど、俺よりちょっと背が低くて、目がこんな細くて、なんかふわっとした感じのやつ知らないかって聞いたら、すぐおまえの話が出てきたから」
「ふわっとしてるつもりはないんだけど……」
「してる」
 天狼はそれきり静かになった。毛皮をまとってうずくまる彼の寝姿はまるで大きな獣のようだった。

 


 庵の主は日の出を合図に目覚める。薄明りに目を細め、思った。朝、一日の一番はじめに認めるものが彼の後頭部であることが、どれほど幸せなことか。
 主を逃がすまいとまとわりつく毛布を押し遣り、ともに目覚めた庵ごと深く呼吸する。わずかな隙間からも図々しく差し込む朝陽が庵に満ちて、流れる天狼の髪をきらめかせた。寝乱れた白銀の上に黄金の欠片をちりばめたような光景は、寝ぼけ眼に突き刺さるような刺激を与えつつもやはりかけがえなく美しいものである。一筋をそっと掬い上げ、主は知らず頬を緩ませた。
 「やっぱおまえ十六夜だ」と呟く声に、主はぱっと手を離した。
「ごめん」
「いんやぁ。そうやって俺が寝てる間に髪触るの好きだもんな」
「……彼の気持ちも分かるよ。君の髪、すごく綺麗だ」
 天狼は片目を薄く開けて主を見ると、わずかに眉を寄せて目を閉じ、息を吐いた。
「まだ眠いし、触りたきゃぁ触ってていーよ」
「梳かしてもいい?」
「ご自由に」
 主は櫛を取ってきて胡坐をかいた。天狼の髪を少しずつ手に取り、時々枝毛を発見しては小さなハサミで切りながら丁寧に梳いた。天狼は小さく笑い、何事か呟きながらあくびをした。夢にも見なかったような、むずがゆいほど穏やかな時間だった。
 旅の疲れからか、天狼は長く眠った。主が動き回っても、傍らに座れば、毛皮の中で呼吸する体のわずかな動きが手に取るように感じられた。それほど彼は安心して庵に身を委ねていた。

 


 寄り添って過ごすうちに天狼は雑多で質朴な庵にすっかり馴染み、庵も彼の大きさや温度を覚えていった。
 天狼は三度の夜を毛皮の中で過ごし、その都度、眠る庵の主への接近を試みたが、四度目にしてようやく成功した。主が、予想より重く堅牢な毛布に手こずる天狼の手を取って導いたためである。
 主は天狼の手を、かさついた胼胝や節くれだった指を何度も撫でた。剣を持って戦うものの立派な手だ。
「ぼくの手と全然違う」
「硬いから触ってもキモチくねーだろ。おまえの手のほうがいい。やらかくて気持ちいい」
 天狼は頭を撫でてくれとせがんだ。主はそれを叶え、天狼に抱きしめられて眠った。
 確かな腕の中で、どうしてか足元がおぼつかないように思えてならなかった。微睡と覚醒を繰り返し、頭の奥底にある鈍い残響に知らず知らず涙を滲ませながら、朝陽が天狼の髪に黄金の輝きを散らすのを見届けてから深く眠った。
 五度目の夜、天狼は唐突に宣言した。
「決めた。朝んなったら、出て行く」
 庵の主は咄嗟に言葉が出てこず、ゆっくりと頷いてから言った。
「旅の続きだね」
「おう。行ってくる」
「例の件、ぼくはまだ認めていないけど、諦めた?」
 天狼は首を横に振った。首を傾げる主が読みかけていた本を取り上げ、ずいと詰め寄った。
「抱きしめたい!」
「それも、十六夜にしたいことだろ」
「ん。だから、おまえにしたい」
「ぼくが十六夜じゃなくても、そうしたい?」
「おまえは十六夜だから、そうする」
 そして主を抱きすくめ、毛布へ潜り込む。主はくすぐったそうに笑った。
「ちょっと。くっついて寝るのは譲ってあげるから、変なとこ触ろうとするな」
「はあ、無理。このシチュで我慢できるやつがおかしい」
「昨夜は大人しく寝てたじゃないか」
「そりゃ昨夜は昨夜。今は今だ」
「本物の十六夜に浮気者って怒られても知らないよ」
「浮気じゃねーもん」
 天狼は、庵の主をきつく抱きしめた。かわいた鼻をすすり、表情を切なく歪め、愛しい人にするように頬擦りした。それが彼の出した答えだった。主は唇を噛み、目を伏せた。
「天狼、もしも君が間違っていたら……どうする……?」
 返事次第では自分が出て行くつもりだった。涙が混ざる寸前のかすれ声で放った問いに天狼は動じることなく、主の唇を奪った。
「言ったろ。俺がおまえを間違えるわけねーって」

 

 黄昏、庵の主は蝋燭を灯した。来訪者は宣言通りに旅立ち、後に残ったのは草臥れた座布団が二枚だけだった。主は座布団を重ねて座り、膝に大振りの書物を抱え、名もなき庵の名もなき主の装いを取り戻すべく、ふっと息を吐いた。
 

 

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てんいざの日2014

​2014/10/16

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